日本基督教団 洛北教会

2016年 教会標語『あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ』(ヨハネ福音書15:16)

先週の説教 -バックナンバー-

17年2月のバックナンバーです。

2017年2月5日 降誕節第7主日

説教:「神に倣う者」
聖書朗読:エフェソの信徒への手紙4章25節〜5章5節
説教者 : 北川善也牧師

 エフェソの信徒への手紙は、キリストの体である教会について語る手紙だ。2章11節以下には、ユダヤ人も異邦人も「隔ての壁」を取り壊され、互いの敵意を捨てて「神の家族」として生きるようにされていることが記されていた。

 3章16節以下には、教会に生きる者たちの内にはキリストが住んでくださり、愛に根ざして生きる者にされることが記されていた。

 また、4章11節以下には、キリスト者は成熟した人間として、愛に根ざして共に生き、真理を語り合いながらキリストに向かって成長していくことが記されていた。

 これらの内容が、今日与えられた御言葉へと集約されていき、読まれた聖書箇所の中心部分において、一つの頂点に達している。

 それは、「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(4:32-5:1)という言葉においてである。

 パウロは、教会とはこのような赦しに生きる共同体であり、この赦しによって結ばれて隣人同士とされている者たちの群れであると告げている。そのような「赦し」をもたらす原動力はどこから湧き起ってくるのだろうか。

 律法を守る者だけが神とつながることのできる神の民であるとして、ユダヤ人たちが設けていた「隔ての壁」を、主イエスは神の子としての御自分の御業によって打ち破られた。こうして、キリスト者は隔ての壁を乗り越える者として教会の外に向かって歩み出す。

 「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(5:2)と言われているように、我々の歩みは神の愛に基づいていることが求められ、語る言葉は神の子としての言葉であることが期待されている。

 今日の箇所には、「新しい生き方」という小見出しが付けられている。ここには、キリスト者としての新しい歩みがどのようなものであるかが記されている。

 その生き方は、ひとことで言えば、「神に倣う者」となることだ。言うまでもなく、我々は皆罪人であり、不完全な者であるから、神のような完全な存在になることなどできない。しかし聖書は、そんな我々人間が「神の似姿」として造られたと教えている。それは、我々が日常生活において鏡を見て自分の姿を知るように、神と向き合うことによって自分自身を知る生き方のことだ。我々は、神から離れて生きるのではなく、どんな時でも神とつながって歩み続けるよう命じられているのだ。

 このような生き方は、我々が当たり前にできる生き方ではない。我々は罪人なのだ。だが、そんな罪人に対する神の愛は、圧倒的な力をもって一人ひとりに臨む。それは、我々の罪を完全に消し去ってしまうほどの力を持っている。キリストの十字架によって、我々が自分の力では抜け出すことのできない罪を、神が拭い去ってくださったのだ。

 そのような力を持っておられる神を信じ、キリストによる十字架の出来事を受け入れる者は、神によって創造された時に与えられた「神の似姿」を回復する。すなわち、我々は聖霊の賜物としての信仰を受け取ることによって「神に倣う者」とされるのだ。そして、「神に倣う者」として生きることによって、一人ひとりが神の御国を受け継ぐ者にされていく。

 我々一人ひとりをとらえ、御自分が創造した大切な存在として「神に倣う者」に新しく造りかえてくださる神の愛に感謝し、この愛に応えて歩む者とされたい。

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2017年2月12日 降誕節第8主日

説教:「光の子として歩みなさい」
聖書朗読:エフェソの信徒への手紙5章6〜14節
説教者 : 北川善也牧師

 今日の中心聖句として、「光の子として歩みなさい」との御言葉が与えられた。「光」という言葉は聖書に多く登場するが、中でも有名なのは主イエスが山上の説教で語られた「あなたがたは世の光である」(マタイ5:4)という御言葉ではないだろうか。

 現代を生きる我々が本当の暗闇を経験することはほとんどないが、人里離れたキャンプ場などで真っ暗闇というものを経験することがある。音がなければ、隣に誰かがいてもわからないような暗闇、一歩先に進んだらそこは断崖絶壁かも知れない、そんなことさえわからない暗闇は、我々に恐怖を抱かせ、身動きできなくさせる。しかし、そのような暗闇にいても、たった一筋の光が照らされれば、何も見えなかった不安から解放され、勇気を与えられる。光には、そういう絶大な力がある。

 一方、光の反対語である「闇」も聖書に多く登場する。聖書において「闇」は、罪の同義語として用いられることが多い。「罪」とは、神に背を向け、神の意志に逆らって生きること、そして、神を神として崇めず、自分を神として生きることだ。

 すべての人間が、このような罪を抱えつつ生きている。そして、この人間の罪が世界に深い闇をもたらしているのだ。この世の暗闇の根源は、人間の心の闇にある。人間の心の奥深くに巣くっている闇が、憎しみ、疑い、ねたみ、攻撃心、殺意を生み出し、世界を悲惨な状態にしている。

 人間は自分の力でこのような闇から脱け出すことができない。しかし、神は人間をそのような世界に放置しておくことを望まれなかった。最愛の御子イエス・キリストを光として送ることによって、神は御自分の豊かな愛と希望を示し、すべての人間をその光の下に招き入れてくださるのだ。

 「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています」(8節)。キリストが光となってこの世に来られ、我々を照らしてくださる。こうして我々は、神の愛を注がれ、希望を与えられて、神の似姿を回復し、世界は神が創造された平和に満ちた状態を取り戻していくのだ。

 光は、暗闇を照らし、人々に希望を与える。主イエスが「あなたがたは世の光である」と言われたとき、そこには「あなたがたは世の人々の間に出ていき、希望の灯火を掲げる存在となれ」とのメッセージが込められていた。主イエスがここで、「世の光になりなさい」と命じられたのではなく、「あなたがたは現に世の光である」と言われていることに注意したい。そして、この御言葉は主の弟子たちだけでなく、主を信じ従って来た大勢の人々に向けても語りかけられた。つまり、キリストを信じる者は、誰でもそのような存在とされると主は断言されたのだ。

 我々は、既にキリストの光を受けている。その我々に御言葉は「光の子として歩みなさい」と呼びかけるのだ。神の愛を実現し、神の国を約束してくださるキリストによって我々は光の子とされている。このようにしてキリストにとらえられた者は、めいめい与えられている賜物を携えて世に出ていき、光の役目を果たすことが求められている。一人ひとりは弱く小さな存在かも知れないが、光はどんなに小さくとも暗闇にあって大きな希望を生み出すのだ。

 我々がそのような働きを担うことの出来る根拠は、キリストという大いなる希望の光によって照らし出されていることにある。だからこそ、我々はその光を反射して輝くことが出来るのだ。我々がいつまでも尽きることのないキリストの光を受け、その光を反射して輝き続けることが出来るよう、共に祈りつつ歩みたい。

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2017年2月19日 降誕節第9主日

説教:「主の御心を悟る」
聖書朗読:エフェソの信徒への手紙5章15〜20節
説教者 : 北川善也牧師

 人間は、神にかたどって創造された、と聖書は告げている。すべてのものを創造し、造られたすべてを御計画のうちに導かれる神。その神が、人間を御自分と似た姿に創造されたということは、人間が神から最も大きな恵みと祝福を受けていることを表わしている。

 ひるがえって、我々の現実はどうか。神が創造された世界は、神が「良し」とされた状態を保っているだろうか。神は、御自分の似姿として創造された人間に、この世界の管理者としての責任を託されたが、我々はその責任を果たしていると言えるだろうか。

 我々の現実の姿は、世界の管理者と言うよりは、むしろ破壊者と言った方が近いかもしれない。自分たちが快適に生きるため、自然環境を大きく変え、最新技術を注ぎ込んで、我が物顔で生きている人間の姿を、神はどのように見ておられるだろうか。

 そんな人間の現実に御言葉が鋭く突き刺さってくる。「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです」(15-16節)。

 パウロは、異邦の地に建てられたエフェソ教会の人々に対して、「あなたがたは以前には肉によれば異邦人であった」(2:11)と過去形で告げ、「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となった」(2:13)と語りかける。神から遠く離れていた人間が、今やキリストの十字架によって神に似た者としての生き方を取り戻した、と聖書は告げるのだ。

 このようにして、神は人間に本来歩むべき道を指し示し、その道へと導いてくださる。罪ゆえに道を踏み外し、どんどん神から離れていく一方であった人間の歩みは、キリストの十字架によって軌道修正され、創造当初の神の似姿を回復されていくのだ。

 このような奇跡は、十字架の出来事なくして起こり得なかった。このことを聖書は、「十字架による贖い」と表現する。「贖う」とは、ある人が所有しているものを代価を払って買い上げ、外に取り出すという意味であり、最も多い用例は、「奴隷を買い戻す」という使い方だ。罪の奴隷であった人間が、特別な資格や能力の有無によってではなく、神の一方的な恵みによって神の子としての立場を回復させられたことを、この表現は見事に言い表している。聖書は、あなたがたがそのようにして、真の知恵、真理の源である神のものとされているのだから「知恵ある人」、「神に倣う人」として歩みなさいと呼びかけるのだ。

 また、「時をよく用いなさい」(16節)とも言われている。聖書の原語であるギリシャ語で「時」を表す言葉は二つあるが、今日のところで用いられているのは「カイロス」だ。これは、単なる時間の長さを表す「クロノス」と異なり、特定の時を指すのに使われる語だ。ここで言われている「時」とは、キリストを信じる者が「神に倣う人」、神に似た者として与えられている知恵を発揮して生きる機会のことが示されている。

 しかも、「時をよく用いなさい」は、直訳すると「この時を贖い出しなさい」となる。キリストの十字架の御業によって、我々が罪の奴隷から贖い出されたように、神の似姿を回復した者として、我々はこの世を神に向かって贖い出す役割を求められている。

 この世の贖いは、キリストの十字架における御業によって、既に成し遂げられているが、そのようにして贖われていることを、聖霊の働きによって悟る者とされたキリスト者は、「神に倣う人」として、この世の人々が贖い出されるよう、与えられている賜物を用いて働くことが求められている。

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2017年2月26日 降誕節第10主日

説教:「互いに仕え合いなさい」
聖書朗読:エフェソの信徒への手紙5章21〜33節
説教者 : 北川善也牧師

 時として、我々は聖書に記されている内容を素直に受け止められないことがある。それは、書かれた時代と我々の時代の価値観が大きく異なることが理由である場合が多い。今日与えられた聖書箇所も、そのような問題が指摘されることの多いところだ。

 ここにおいて目立つのは、「妻は夫に仕えよ」という時代遅れの考え方だ。しかし、聖書が本当に語ろうとしているのは、そのような人間社会の価値観などではない。新共同訳聖書に付けられている「妻と夫」という小見出しに引きずられて、そのような先入観を持ってしまえば、聖書の深みに辿り着くことは出来ない。

 そのために助けとなる書物を参考にしながら、今日の箇所を読み進めたい。その参考書は、宗教改革者マルティン・ルターが記した『キリスト者の自由』だ。ルターはこの書物の中で、エフェソ書5:22以下を繰り返し引用している。

 ルターは、この箇所では「妻と夫」をモチーフにして、「教会とキリスト」の関係が徹底して語られていると説く。そこでは、罪人である我々の魂を妻に見立て、キリストを夫に見立てて語られていると言う。そして、そのように本来まったくかけ離れた存在であった者同士が、結婚によって一体とされることで、二人の間に「喜ばしい交換」という奇跡が起こる、とルターは説いている。

 ルターは、このような罪人の魂とキリストが一体とされる結婚こそ、「真の完全なる結婚」であると語る。まったく不釣り合いな者同士の結婚というあり得ない出来事であるにも関わらず、結婚によって花嫁は花婿と一体にされ、二人がそれぞれ所有していたものは共有のものとなる。結婚式の時、新郎新婦が指輪を交換するように、その時、罪人の罪とキリストの豊かな宝の驚くべき「喜ばしい交換」が起こると言うのだ。

 ルターは、25〜27節を引用して、「キリストは命の言葉において、すなわち命と義と救いの言葉を信じる信仰によって花嫁を洗い清め、汚れなく、しわのない尊い花嫁をご自分の前に立てようとなさる」と言う。つまり、この結婚はキリストによる一方的な恵みの御業以外の何ものでもないのだ。

 キリストの徹底的な愛と真実によって、罪人の魂がキリストと一体にされるという奇跡的な結びつきが起こり、その結果として罪人の救いという出来事が成し遂げられる、とルターは告げる。

 我々は信仰告白で、教会は「聖徒の交わり」であると言い表すが、罪人がそのような者とされる奇跡を、ルターが言うところの「罪人とキリスト」の結婚という関係、すなわち「教会とキリスト」の関係は見事に表現している。

 エフェソ書はそのことを、「キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主である」(23節)、「キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになった」(25節)、そしてキリストがそうなさったのは「言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし」(26節)、「聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるため」(27節)であったと告げている。

 だからこそ、教会は「キリストに仕え」(24節)、「キリストの体の一部」(30節)として生きることが出来る。そして、そのような教会において、キリストに仕える者同士が「互いに」仕え合って生きるという道が開かれるのだ。

 我々は神にかたどって創造され、命の息を吹き込まれて生きる者とされた一人ひとりだ。その一人ひとりが、この地上にあって教会という交わりに入れられている。我々は、このようにして互いに豊かに受けているキリストの恵みを分かち合いつつ生きるために一つとされているのだ。

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