先週の説教 -バックナンバー-
17年3月のバックナンバーです。
17年3月のバックナンバーです。
説教:「神の御心とは」
聖書朗読:エフェソの信徒への手紙6章1〜9節
説教者 : 北川善也牧師
洗礼とは一体何か。礼拝の場で、イエスは我々の主であるとの信仰を公に告白すること。神の家族である教会の一員になること。聖餐の食卓に与るようになること。他にも、いくらでも洗礼の恵み、洗礼の喜びを数え上げていくことができるだろう。
洗礼の恵みは膨大で、一生かかっても味わい尽くすことができない。洗礼から始まる我々の旅がついに天に至って、ようやくそのすべてを知ることができるほど、洗礼の恵みは豊かな財産なのだ。しかし同時に、洗礼の恵みは、どこか遠くにあるものではない。洗礼とは、既に存在している洗礼を受けた神の民、つまり、教会に加えられることだからだ。
今日与えられた聖書箇所において示されていることの中心は、先週読まれた5章21節が語る「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」ということだ。そこから、妻と夫、子と親、奴隷と主人、それぞれの生き方が説かれている。ここで、説かれる順序が、夫と妻、親と子、主人と奴隷ではなく、逆になっていることに注意したい。当時の社会において、仕える立場にあると考えられていた者が、先に取り上げられている。そのことは、ここで語られていることの中心が「仕える」ことだということを示している。
子どもに対しては、両親に従いなさい、と語られる。それは正しいことだというのだ。このことは、神と我々人間との関係が、父と子の関係として語られることと無縁ではない。人間が、神を神とし、神に従うことによって人間となるように、子どもは、親を親として、これに従うことによって子どもとなる。年齢が低ければ低いほど、この関係は大切で、幼い子どもは、親との間に正しい関係が持てなければ、健やかに成長することができない。
しかし、この箇所で語りかけられているのは、必ずしも幼い子どもというわけではない。ある程度成長した子どもが考えられている。子どもは成長するにしたがって、親に従うことが難しくなる。親が必ずしも、自分が考えるような理想的な人間でないことに気付くからだ。これは、どんな人間でも一度は通る道だろう。
だからここで「主に結ばれている者として」と言われるのだ。主に結ばれていなければ、ここで言われているような形で、両親に従うことは難しい。それは、主イエスの支配のもとで、親を親として受け止め直すことであり、自分が子であるということを新たに受け止めることだ。ここで示されていることは、それまでの関係の継続ではなく、新しい関係の中で生きることなのだ。
生きている限り、我々は様々な場所で、様々な呼ばれ方をする。「優等生・劣等生」「良い親・悪い親」「優しい人・怖い人」など。そんな我々に、神は洗礼によって「イエス・キリスト」という衣服を着せてくださる。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(ガラテヤ3:26-27)とある通りだ。そうして、民族・社会的身分・性別によって存在価値を判断されない、洗礼を受けた人々による不思議な群れ、教会が生まれた。
洗礼を受けるとは、この場所にある教会の一員になるというだけでなく、世界に広がり、二千年以上続いてきたキリストの体なる教会の一員に加えられることだ。そして、決して変わることのないアイデンティティを神からいただくことだ。洗礼を受けた者たちは、「あなたは何者か」と問われた時、いついかなる時でも、「わたしは神の子です」と答えることができるのだ。
←クリックすると礼拝の録音が聞けます。
説教:「神の武具を身に着けなさい」
聖書朗読:エフェソの信徒への手紙6章10〜13節
説教者 : 北川善也牧師
人生は、手こぎ舟に乗って大海原を行くようなものだ。静かな凪なら順調にこぎ進むことが出来るかもしれないが、波が大きくなれば思うように進めなくなる。そんな手こぎ舟が、大海の真ん中で嵐に襲われたらどうなるだろうか。
そのように、我々の人生には突如として嵐が襲ってくる。そんな時、我々はまるで木の葉のように荒波に翻弄され、海の藻屑となるばかりに思われる。だが、荒れ狂う海にばかり気を取られている我々は、すっかり忘れてしまっている。同じ舟に、荒れ狂う海を叱りつけ、黙らせる力を持っておられる御方が乗り込み、絶えず見守っていてくださるということを。
我々に与えられている最大の恵みは、この御方を信じる信仰に他ならない。パウロが語っているように、いかなる試練を受けようとも、「主に依り頼む」ことによって、信仰者は何ものも恐れず前進していくことが出来るからだ。
パウロは、今日のところで、「最後に言う。……強くなりなさい」とエフェソの信徒たちに命じている。彼らは、主を信じることによって迫害や苦しみを受けるようになったため、信仰を捨てようとする思いさえ抱き始めていたかもしれない。パウロは、彼らのそんな状況を敏感に感じ取ったのだ。
彼らがどうしてそんな思いになったかと言えば、自分たちの弱さの方に主を引き込んでしまったからだ。彼らは、本当の意味で「主に依り頼む」ことをしていなかった。だから、自分たちが「強く」ないのは、主の力が不十分だからではないかと疑い始めるのだ。
彼らは、今が戦いの最中であることを忘れてしまっていた。戦いの結果は、まだ出ていないのだ。戦いが続く限り、痛みや苦しみがあるのは当然だ。確かに、痛みや苦しみは人間を弱らせ、この先にも痛みや苦しみが待っているという思いは人間に恐れを抱かせる。
しかし、主は「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と言ってくださる。主は、我々に先んじて痛み、苦しみをすべて経験し、それらを既に乗り越えてくださっている。主は、十字架の歩みにおいて、世のすべての痛み、苦しみ、そして死さえも経験され、それらすべてに勝利されたのだ。
我々は、この世にある限り、痛み、苦しみを経験し続けるだろう。だが、それは最終的な結果ではない。我々は、神の恵みの賜物として与えられている信仰によって、戦いの本当の結果を知らされている。主が十字架の死に勝利し、復活されたことを。この真の勝利を知っているからこそ、我々はどんな痛み、苦しみを受けようとも立ち続けることができる。
聖餐式文にもあるように、「キリストの復活の力を知り、その苦しみにあずか」ることは、「主のからだのえだである自覚がいよいよ深くなり、ますます励んで主に仕えることができ」る信仰へと我々を導いていく。
今、我々は、主が十字架に向かって進まれた、苦難の道行きを覚える受難節を過ごしている。そんな我々に、御言葉は次のように語りかける。「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」(10-12節)。
人生において苦しみを避けることは出来ない。だが、十字架の主を信じる者は、たとえ苦しみの中にあっても、自分が既に真の勝利者である主のものとされているという希望をもって、力強く歩んでいくことが出来るのだ。
←クリックすると礼拝の録音が聞けます。
説教:「変わらぬ愛をもって」
聖書朗読:エフェソの信徒への手紙6章21〜24節
説教者 : 北川善也牧師
to be updated
←クリックすると礼拝の録音が聞けます。