日本基督教団 洛北教会

2020年 教会標語「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(ヘブライ人への手紙8章10節)

先週の説教 -バックナンバー-

20年4月のバックナンバーです。

2020年4月5日 棕櫚の主日

説教:「責任」
聖書朗読:ヨハネによる福音書18章28〜40節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「責 任」

 本日の説教に「責任」という題を付けました。「責任感」、「責任主体」、「責任者」、「責任を取る」、「責任を持つ」等々、いずれも大切な事であり、 それを欠くとき「無責任」といわれ、信用を失ってしまいます。 中でも「応答責任」という事は特に重要です。今日の聖書の中では、ユダヤ人達がイエスの処刑をピラトに押しつけようとします。 ピラトはこれを嫌がり、おまえ達が自分たちで裁けと言って、押し返そうとします。それでも最後に、「この男に罪を見いだせない」と言いいつつも、状況に押し流されて、イエスを「彼らに引き渡し」たのです。 つまり此処では、だれも責任を取ろうとしていません。一方はイエスを殺そうとし、一方はイエスを無罪にしようとします。でも、自己責任でそれをしないのです。 この無責任な態度は、ユダヤ人とピラトだけではありません。今日の箇所の直前で、イエス様の筆頭弟子であったペトロは、三度もイエスなんか知らない、私はそれ(弟子)では無いと言って、イエスとの関係を無かった事にしようとします。無責任の極みです。 英語で「責任」はレスポンシビリティーといいますが、要するに責任とはレスポンスすること、即ち「応答する事」なのであります。何に対してか、神に対してであります。 ですから神を信ぜず、神を見失ったところでは、人から「責任ある態度」は出てこない。神を信じ、神に対して応答することの大切さを知っている者のみが、神と人とに対して責任を持って(応答責任を果たして)生きる事が出来るのです。

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2020年4月12日 復活日(イースター)

説教:「主を見た者」
聖書朗読:ヨハネによる福音書第20章1〜18節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「見ても、触れても解らない」

 ご復活の主は、見ても解らない。復活の主を「見て」いるマリアが、イエスを「園丁」であると思い込んでいる(15 節)のがその証拠である。復活の主は想像の産物ではなく、自らの理解を超えた存在。それをマリア は「園丁」という自分の世界の中に還元しようとする。いわゆる「取り込み」である。
 神はいるのか。居るなら出てこい。この目で「見て、触れ」れば信じる。これが我々人間の姿である。「理性的、客観的、科学的かつ現実主義的人間ならば、誰もがそう言うはずである」と考える。これが私たち人間 の動かす事のできない現実である。
 しかし残念な事に、現実は見ても解らないし、触れても解らない。だからイエスは、マリアに言う。「私に触れて(すがりついて)はならない」と。むしろあなたは、今自分に語り掛け、更には自分の名を呼んで下さっ た、その復活の主イエスの「呼びかけ」をこそ聞いて生きよと、聖書はこの朝、マリアだけではなく、私達一人一人に語るのである。
 私たちは、この私の現実、私の世界の中に飛び込んでくる、ご復活の主の言葉、その呼びかけによってこそ、ご復活の主と出会うのである。この私の世界に、主が入ってきてくださった。それは同時に、その呼びかけに よって、この私が、自分の小さな世界から、神の永遠の命へと導き出されることをこそ意味する。トマスは「見て、触れれば信じる」と言った(ヨハネ20 章25 節)。しかし彼は主の呼びかけを聞き、触れる事なく信じる 者とされた。それが救いなのである。

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2020年4月19日 復活節第2主日

説教:「挫折の向こう側に」
聖書朗読:ヨハネによる福音書第26章24〜25節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「ダメ人間からの救い」

 イエスから「生まれない方がよかった」とまで言われたイスカリオテのユダ。これ以降、彼は人類の記憶に残る裏切り者の代表となってしまった。しかしイエスを裏切ったのはユダだけではない。ペトロを筆頭とする他の全ての弟子達もまた、イエスを裏切り、見捨てたのである。しかし、ユダと他の弟子達には決定的な違いがある。それはユダは自殺という形で自分の裏切り行為に対する決着を付けたが、他の弟子達はイエスの死後、ただ恐れ、おののき、逃げ去ったという事である。
 あるとき教会学校の子供達に語ったことがある。意気地なし、卑怯者、ダメ人間の11人より、自分で切腹したユダの方が格好良かったのではないかと。子たち達は「ユダの方が格好いい」と言った。でも続いて私はこう言った。でもね、イエス様はやっぱりそうではないと教えておられるんだよ。イエスは言われる。格好いい必要なんかない。むしろ自分の罪の中にくずおれて、自分の弱さのなかに泣く者であれと。ユダとペトロの決定的な違いはそこにある。強いユダは、自分で自分の人生に決着を付けた。弱いペトロは己の弱さに泣く事しか出来なかった。しかし、強いユダは、結果的に御復活の主に出会う事なく、弱いペトロが復活の主と出会い、そのお方との関係の中に、再び立つ者とされた。
 「あなたは生まれない方が良かった」、これはユダに対する全否定の言葉ではない。ユダの悲しさを、自分の事のように悲しんでおられる、主イエスの慈しみの言葉なのである。全ての者を愛し、慈しみつつ近づいて下さる主イエスに出会って、この新しい一週間を歩み始めるものでありたい。

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2020年4月26日 復活節第3主日

説教:「網を打つ者」
聖書朗読:ヨハネによる福音書第21章1〜14節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「歴史と信仰」

 キリスト教信仰の中核、更には聖書信仰の本質は、その歴史的信仰理解にある。聖書理解に多方面かつ多種類のアプローチがあるが、学問的アプローチと共に、神秘主義的解釈や言葉の恣意的解釈をこれでもかと繰り出し、押し付けて来る非歴史的解釈がある。更には「十字架の言葉」に焦点を当てるパウロ的立場と、聖霊の働きに焦点を当てる「聖霊派」や「霊的熱狂主義」等々、様々な理解が可能であるが、此処で重要なのは、「十字架」は歴史を担い、「聖霊の働きのみの強調」は歴史を捨象する可能性があるという事である。
 聖霊の働きは徹頭徹尾、主の十字架の出来事、なかんずくその死と復活に結びつけられねばならない。なぜならそこでこそ信仰が十字架を中心とした歴史性を獲得するからである。
 今日のキーワードは何か。「船の右側」か、或いは「153匹」か。最も重要な言葉は「さかな」である。普通、聖書で魚は「イクスース」であるが、ここでは「オプサリオン」が用いられており、ヨハネ福音書だけがこの極めて特殊な言葉を使うがそれには理由がある。ヨハネは此処と6章の5千人の給食の場面でのみこの言葉を用いるが、このオプサリオンとは元来「肉=おかず」を意味し、旧約聖書では民数記11章22節に出る「海の肉(デゲル)=即ち魚」がそれに当たる。つまりこういう事である。エジプトを出た民が「肉」を欲したとき、その願いをモーセが満たしたが、主イエスは彼を遙かに超えた方であり、生前には、たった2匹のオプサリオンで5千人を満たしたが、復活の朝には153匹ものオプサリオンを以て、教会を満たして下さる。モーセはウズラの肉で、復活の主はご自身の御体(みからだ)を以て、それをして下さるのであると。またその恵み、尽きる事なしと。

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