日本基督教団 洛北教会

2020年 教会標語「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(ヘブライ人への手紙8章10節)

先週の説教 -バックナンバー-

20年5月のバックナンバーです。

2020年5月3日 復活節第4主日

説教:「弟子への委託」
聖書朗読:ヨハネによる福音書21章15〜25節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「愛すること、飼うこと、死において神の栄光を顕すこと」

 今日の箇所には最低でも三つの大きな視点がある。先ずはじめに、ペトロが三度、主に「私を愛しているか」と問われていることである。「愛する(意思)か」ではない。「愛している(事実)か」である。そしてイエスがペトロに問うその愛とは「アガペー」の愛である。これにペトロは「フィリア」で答える。一方的、かつ無償の愛としてのアガペーの存在が問われているのに、ペトロは友愛を意味するフィリアで答えるのである。三度目にはイエスの方から降りてきてフィリアの有無を問うのである。
 二番目は、同じく三度にわたってペトロに対して職務の委託が行われることである。「私の小羊を飼いなさい」、「わたしの羊の世話をしなさい」、「私の羊を飼いなさい」がそれであり、小羊はアルニア、飼いなさいはボスケである。世話をしなさいはポイマイネ、羊たちはプロバティアであり、三回目はボスケ+プロバディアとなっている。ポイマイネはどちらかというと飼育(餌を与えること)であり、ボスケは守り導くことを主な要素とする。ここでは二つのことが大切である。まずペトロはどのようなことを委託されたのであろうか。次に委託を受けたことそのものの大切さということである。その問いを持ちつつ、じっくりと自分の目でこの箇所を読んでほしい。
 最後に、己の死を以て神の栄光を顕すことが語られる。これまで語られてきたことの全てがこの事柄の中に収束していく様を、我々は目の当たりにする。「主よ、あなたは何もかもをご存じです」と答えるペトロに御復活の主は言われる。「わたしに従いなさい」と。彼はここで、永遠の命に至る自分の人生の中へと召されてゆくのである。

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2020年5月10日 復活節第5主日

説教:「聖霊の実り」
聖書朗読:ヨハネによる福音書15章18〜29節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「命の所属」

 今日の聖書箇所のキーワードの一つは、19節に「世に属する」、「世に属していない」と、二度にわたって出る「属する」ということばである。またその背後には、「何に属しているか」、これがそのものの中身=本質を決めるというヨハネの神学がある。
 ヨハネ福音書における「世」とは、神に逆らうものの総称である。またそれは「闇」であり、「憎しみ」であり、「暴虐」であり、最終的には「自己神化」の世界である。その「世」から、主イエスが我々を選び出し=即ち「所属」を変え、ご自分のものとして下さった。だから「世」はあなた方を憎むのであるというのである。
 私たちは何故、「世」が己を見つめ、己を楽しませる為の時として用いている日曜日に、それでもせっせと教会に通うのであろうか(今は緊急事態でそれが叶わないが、それでもこうして皆で礼拝を捧げている)。答えははっきりしている。私たちは日曜日を自分の為に用いないことによって、自分自身が何に所属するかを自他に向けて証ししているのである。 しかし私たちは単なる「世捨て人」ではない。むしろ積極的に世に遣わされて生きる群れである。「世に在って、しかも世のものとしてではなく」生きる存在である(ヨハネ17:11〜19)。そこに私たちの困難がある。課題があり、闘いがある。しかし、ひるむことなく前進しよう。なぜならヨハネ16:33に「わたしは既に世に勝っている」と主が仰っているからである。
 覚えておきたいことがある。我々は世に在って、しかも世のものとしてではなく生きる者、即ち、世に対立する者であり、更に少数者である。けれども、その者こそが、最も世を愛し、世の罪と破れの一切を担い、世を救うのである。十字架の主キリストがそれである。

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2020年5月17日 復活節第6主日

説教:「キリストの勝利」
聖書朗読:ヨハネによる福音書16章25〜33節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「何を信じるか」

 私たちが何かを信じると言うとき、それは一体何を信じているのだろうか。この問いに対する答えが今日の聖書箇所にははっきりと示されている。30節がそれである。ここで弟子達は「私たちは信じます」と明確に答えている。しかしここで彼らが信じているものはイエスでもなければ神でもない。ここで彼らが信じているもの、それは「自分自身の理解」であり、また「己の確信」である。
 それが25節の主のお言葉から判る。ここで主は「父についてはっきり知らせる日が来る」と言われたのであって、「来た」と言われたのではない。26節にも「その日には」とあり、弟子達がはっきりと知る日はまだ来ていないのである。にもかかわらず、弟子達は、今このとき、今日この日に自分たちははっきりと知り、また信じたと言うのである。
 ここにヨハネは弟子達の誤解を提示している。31節の後半は「今、ようやく信じるようになったのか」とあり、この訳だと30節の弟子達の応答は正しく、しかもその答えへの到達が遅かったという意味にしか取れないが、これは明白な誤訳である。翻訳者が文脈を正しく読み取れなかった為の意訳的誤訳という他ない。原文は「今、信じるというのか」であり、「ようやく」も「〜ようになったのか」も無い。「今信じるというのか、しかしそれはあり得ない」、これが原文の主旨である。
 ではいつ、弟子達にそれが判るのか。それが16章の主題である「弁護者」であり「真理の霊」である「聖霊」が来られるときなのである。弟子達は己の確信に挫折し、自らの滅びを経験する。その後で、聖霊が来られて、私たちに世に勝利した主イエスを理解させて下さるのである。私たちが信じるのは各自の理解、自分の信仰ではなく、私たちを挫折の淵から引き起こして下さる、聖霊の愛とその働きである。

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2020年5月24日 復活節第7主日

説教:「キリストの昇天」
聖書朗読:ヨハネによる福音書7章32〜39節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「縦ですか、横ですか」

 フランスの画家ゴーギャンに「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という有名な作品がある。更に、神谷美恵子の『こころの旅』にも同じ主旨の言葉がある。「自分は何者であり、どこからやって来て今どこに立っており、これからどこに向かって歩もうとするのか」という表現だ。しかし実は、これらはヨハネ福音書の時代に一世を風靡していたグノーシス思想のキャッチフレーズなのである。
 このグノーシスのキャッチコピーを元に、ヨハネはこの箇所を書いている。 27節「しかし、私たちは、この人がどこの出身かを知っている。だが、メシアが来られるとき、それが、どこからか知っている者は一人もいない。」や、 29節「私はその方を知っている。私はその方のもとから来た者であり、その方が私をお遣わしになったのである。」また、33節「そこで、イエスは言われた。『今しばらく、私はあなたがたと共にいる。それから、私を遣わした方のもとへ帰る。』」、更には35節「すると、ユダヤ人たちは互いに言った。『私たちが見つけることはないとは、この人はどこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。』」とあるのがそれである。
 要するにイエスはどこから来て何処へ行こうとしているのか。これをユダヤ人達は水平に捉えるが、イエスご自身は垂直に天と地の事として語っておられる。だからこの二つは永遠に交わらない。では結局イエスは己を天の高みに至る者と位置づけ、地にある人間を見下ろしつつ、これを語っておられるのであろうか。そうではない。ヨハネ福音書はここでイエスにおける「垂直」の次元を提示しながら、その最低地点即ち「低さ」をこそ語っているのである。そして云う。そこにこそ我々の救いの根拠があると。

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2020年5月31日 聖霊降臨日(ペンテコステ)

説教:「聖霊の賜物」
聖書朗読:使徒言行録2章1〜11節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「One Team」

 言行録は教会の誕生日とも云うべきペンテコステの日の出来事を次のような記述で始めている。「五旬祭の日が来て、皆が、同じ場所に、集まっていると」(1節)と。「日が来て」は「日が満ちて」であり、その後は「彼らは皆、一つの場所に、共に集まっていると」である。言行録が告げていること。それは、沢山の者が、それでも場所に於いても時に於いても一体となっていたと云うことである。
 これはたまたまそうであったという偶然の状況を書いているのではない。そうではなく、これこそが、聖霊が降る前提条件だという事である。時が満ちて、皆が一つとなり、心を合わせ、祈りを合わせている状況、それが聖霊を受ける前提だというのである。つまり聖霊はその一体性の上に、即ちその「家=家族=共同体」にこそ到来するのであると。
 その上で、聖霊はそのメンバー個々に臨みそして留まる。それが3節の意味である。かくの如く聖霊とその働きは先ず何よりも教会共同体への賜物であり、その上で信徒一人一人の賜物となる。だから教会から離れれば、やがて聖霊を失うのである。
 2節には「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。」とある。礼拝毎に清き霊の風が吹き来たり、家の中を吹き廻り、悪しき者の霊や、人の霊を吹き飛ばし、愛に燃えるその炎の舌(言葉)として、一人一人に臨み、一人一人と教会を内より新しくし、その命に活かして下さるのである。
 しかも、個人が先にあるのではなく、共同体があり、その一体性の中にこそ聖霊が注がれ、一人一人がその恵みに生きる者となる。まさに教会こそが、聖霊に在ってOne Team(ワン・ティーム)の存在なのである。(但しOne Teamは本来「1チーム」の意味であり、今の日本での「思い」を込めた使い方ならA Teamの方がすんなり来ます。…念のため。)

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