日本基督教団 洛北教会

2020年 教会標語「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(ヘブライ人への手紙8章10節)

先週の説教 -バックナンバー-

20年6月のバックナンバーです。

2020年6月7日 三位一体主日

説教:「真理の霊」
聖書朗読:テモテへの手紙一6章11〜16節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「どちらになさいますか」

 人間には二つの生き方があると今日のテキストは云う。
〔A〕高慢・強欲コース:その中味は、無分別、妬み、争い、中傷、邪推、絶えざる論争であり、そのゴールは「滅び」(6章4〜6節)。
〔B〕神の人コース:その中味は、正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和であり、そのゴールは「永遠の命」(6章11〜12節)。
 さて、ここで問題です。「あなたはどっち!」。「何の迷いもなく断然A!」という人は少ないであろう。けれども結果的にはAコースを生きる人の数は圧倒的に多いのではないか。もちろん、誰だって本当に選びたいのはBのコースである。でもこちらのコースを実際に生きる者は少ない、圧倒的に少ないと聖書はいうのである。 何故か、それは人が人生の歩み方を決めるのは自分自身だと思い込んでいるからです。
 しかし実はそうではない。私の人生を決めるものは、私が何と出会うかによるのである。
 そしてパウロは云う。あなたの出会うべきものは「イエス・キリストの健全な言葉」であり、「信心に基づく教え」(3節)であるが、「終わりの時には惑わす霊と、悪霊どもの教えに心を奪われ、信心から脱落する者が現れる」(4章1節)と。
 そう、私たちが何の霊と出会い、どの霊の言葉を聞いて生きるか、そこに全ては懸かっている。「聖霊」とは繰り返し云うが「聖い者の霊(息吹)」であり、「悪霊」とは「悪しき者の霊(誘惑)」である。そのことを明確に知るとき、私たちが何と戦って生きるべきであるか、そのことがはっきりと見えて来る。12節にある「信仰の戦い」とは「信仰が行う戦い」である。信仰とは「ピスティス」であり、それはとりもなおさず「主イエスの真実」である。主が共に戦って下さるのである。その愛に応え生きる者でありたい。

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2020年6月14日 聖霊降臨節第3主日

説教:「神の民」
聖書朗読:ローマの信徒への手紙10章5〜17節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「だれでも救われる」

 パウロは冒頭で「二つの義」について語り始める。一つは「律法に基づく義」であり、これは、それを「行う」ことによって満たされる。今ひとつは「信仰による義」であり、これは「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させたと信じる」ことで達成される義=救いである。
 これに際して、6,7節に謎のような言葉が現れる。誰が天に昇るかとか誰が底なしの淵に下るかと言ってはならないと云う言葉である。これは一体何を意味しているのであろうか。
答えははっきりしていて、それはつまり律法による義の達成に関する問いであった。即ち、一体誰が律法を完全に履行して天に昇り、誰が律法から外れてアビスに墜ちるかが問われていたのだ。要するにパウロは、キリストの昇天と陰府降りを究極の出来事として挙げ、その両者ともに神の独り子なる主キリストにのみ属する出来事であるという。
 主キリストが、十字架を基点として陰府にまで降り、私たちの罪とその裁きの一切を引き受けて下さり、更には私たちの初穂として天に昇って下さった。私たちの罪も栄光も、滅びも救いも、その全ては、あなたが律法を全うする義人であるか、律法を犯す罪人であるかでは無く(それを問えば、罪人に決まっている)、この主キリストにこそ懸かっているというのである。
 とすれば大切なことはただ一つ、8節の「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」ことを信じ、受け入れるか否かにある。それは主の御言葉の真実(ピスティス)を信じ受け入れることであり、またそれは、御言葉=主の十字架の救いを信じ受け入れたことを公に告白することでもある。その告白に主は応えて下さる。「主を信じるものは誰も失望することがない」(11節)からである。

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2020年6月21日 聖霊降臨節第4主日

説教:「道」
聖書朗読:ヨハネの手紙一 2章22〜29節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「聖霊の風」

 今日取り上げられているのは、「偽り者」(22節)並びに「反キリスト」であり、これらは「あなた方を惑わせようとしている者たち」(26 節)であるという。18節以下によれば彼らもかつては仲間であり、おそらくは洗礼も受けており、イエスがメシア(キリスト)であることも認めていたはずである。その人々が離れていったことがヨハネの共同体に動揺を引き起こしたであろうことは想像に難くない。
 離れて行った者たちは「イエスがメシアであることを否定する者たち」(22 節)であり、彼らが「御父と御子を認めない」者たちであったことから、その人々は仮現論者であったと推測される。とすれば、問題は実は相当ややこしくなる。つまり仮現論者も厳密に言えば、イエスはメシアであると考えていたからである。ただそのメシア理解が違うのである。
 仮現論者のメシア論は「イエス・キリストの真の神的本質は終始不変であり、受肉(降誕)も、地上の生涯も、十字架の死もすべて仮象にすぎない」という見方のことである。つまり、キリストの神性を重視する余り、その人性を実体的に否定する者たちであった。
 「反キリスト」は「アンティ・キリスト」であるが、この「アンティ」には「代わり」という意味がある。だから「反メシア」でなく「別のメシア」を提示し、これを信奉すること。これがヨハネの共同体が目の当たりにしている敵の本体なのである。それはまた、現代に生きる私たちが今日只今の事として経験している事柄でもある。
 ではその闘いの現場でヨハネの群れを守るのは何であるか。それが「御子から注がれた霊」(27節)であり、それは「聖霊」の事である。この聖霊が「聖き者の霊」であり、また「十字架の言葉」である事を知り抜くとき、われわれは「御子の内にいつもとどまる者」(28節)とされるのである。聖霊よ、常に吹き来たり、我らを強め、生かし給え、アーメン。

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2020年6月28日 聖霊降臨節第5主日

説教:「エルサレム」
聖書朗読:ヘブライ人への手紙12章18〜29節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「自分が何者か、あなたは判っていますか」

 今日の箇所は判りにくい。否、ヘブライ書はすべて判りにくい。でもとても大切ことをこの書簡は書いている。それを一言で、今日の表題に掲げてみた。
 先ず二つの接近(即ち出会い)が語られる。一つはシナイ山でのモーセと神との出会いであり、その際の描写が19節以降の「触れ得る山、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、言葉の声」などであり、それは堪えられない苦痛また恐怖であった。「神を見た者は死ぬ」と云われていたので、全員が恐れおののいていたのである。
 今ひとつが22節以降の「シオンの山に、生ける神の都に、天のエルサレムに、天使たちの祝宴に、長子の集いに、義人たちの霊に、新しい契約の仲介者イエスに、またアベルの血よりも立派に語る注がれた血に、(あなたがたは近づいた)」であり、これは大きな喜びを表している。ではその喜びは一体どこからもたらされたか。それこそがヘブライ書の主題である大祭司なるキリストの仲保者(新共同訳:仲介者)であり、完全な生け贄としてご自身を捧げられた主イエス・キリストによってであるとヘブライ書は語る。
 昔はシナイ山で神の声が地を揺り動かしたが、今度は天が揺り動かされる。この時、地が取り除かれるのである。そこで如何なる時にも揺り動かされることのない「御国」が出現する(28節前半の直訳は「それゆえに揺り動かされることのない王国を受ける私たちは感謝しましょう」となる)。この不動の王国、それは主イエスの復活の命と父なる神との永遠の交わりそのものであるが、それを打ち立てたのは主イエスの十字架の贖いである。
 だからあなたは揺らがない。あなたを救うものはあなたの信仰ではなく、大祭司キリストの贖いの恵みなのだから。だからその恵みを受け止めて揺らがない人生を生きよう。

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