日本基督教団 洛北教会

2020年 教会標語「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(ヘブライ人への手紙8章10節)

先週の説教 -バックナンバー-

20年7月のバックナンバーです。

2020年7月5日 聖霊降臨節第6主日

説教:「命の土台」
聖書朗読:エフェソの信徒への手紙 第2章11〜22節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「水平の和解・垂直の和解」

 エフェソ書が語る和解は二つの位相を持つ。一つは水平の位相における和解で、聖書では要するに異邦人とユダヤ人の和解として位置づけられる。律法問題を抜きにして云えば、異なる二つの民族が和解し一体と成るのであるから、これはこれで素晴らしい事である。(「律法」とういう要素を導入すれば、神の民と無神の民の和解、しかも無神の民が有神と民となることによる一致が在る事になる。)
 今一つは云うまでも無く垂直の和解、即ち神との和解である。そのポイントは14〜16節である。「キリストは、私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉によって敵意という隔ての壁を取り壊し、数々の規則から成る戒めの律法を無効とされました。こうしてキリストは、ご自分において二つのものを一人の新しい人に造り変えて、平和をもたらしてくださいました。十字架を通して二つのものを一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼしてくださいました。」とあるように、二つのものが一つに命の中に合わせられ、「一人の新しい人」に造り変えられていくのである。
 二つのものが二つのまま、一致しているのではない。二つも三つも四つものものが、全部一つの命を生きる者となり、神に対して一つとなる。この神に対してと云う事が重要なのであって、神が居られなければ、私たちは遂に、一つ二つ三つのままなのである。
 「神に対して、神との関係の中で、神の霊によって、私たちは一つである。」これが新しいキリストの教会に生きる者たちの現実となる。そしてその恵みは「十字架を通して、十字架によって」もたらされたと今日の聖書は語る。コロナ禍の中3ヶ月間別れ別れに居た私たちは、今日、一つの礼拝を神に捧げる。一つの命をここで本当に生きる者とされるのである。その恵みを皆で受け止めて「新しい命」を生きる群れでありたい。

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2020年7月12日 聖霊降臨節第7主日

説教:「命の回復」
聖書朗読:使徒言行録 第9章30〜43節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「あなたの生き方はどんなですか」

 今日のテキストの31節はルカによる「まとめの句」であり、教会が順調に発展する様子を述べている。32節から42節までは、ペトロが行った二つの奇跡を記録しているが、実はこの奇跡の記事にも、教会発展のプロセスが語られているのである。記事は32〜35節、36〜42節の二つのグループに分ける事が出来るが、この二つの記事には全く同じ言葉を用いた同型反復が見られるのである。それはどこかというと、34節の「起きなさい … 起き上がった」、35節の「主に立ち帰った」並びに、40節の「起きなさい … 起き上がった」、42節の「主を信じた」である。
 この反復の中にこそ、この奇跡物語を通してルカが本当に語りたい事がある。例えばマルコ1章の25節「黙れ、この人から出て行け」、26節「出て行った」がその原型である。お判りだろうか、テーマは「出来事ととなる言葉」なのである。それは一体だれの言葉か。いうまでもなく主イエスのお言葉である。なので今日の箇所でも34節でペトロは「イエス・キリストがいやしてくださる」と言ってその奇跡を行う。
 つまりルカはこう言いたいのである。使徒たちが行う力ある業は、実はすべて主イエスの御業なのであると。これは素晴らしい事であると思う。人はだれしも力ある業を自分の力、自分の功績と言いつのりたいものであるが、使徒たちは一切それをしない。そして言う、すべてはイエスの御業であると。この神に栄光を帰す者たちの生き様がこそが、宣教の最大の力となっていった事を言行録は私たちに教えるのである。

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2020年7月19日 聖霊降臨節第8主日

説教:「希望」
聖書朗読:使徒言行録 第24章10〜21節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「人類最初のプロフェッショナル達」

 地中海世界を巡る第三回目の伝道旅行を終えて、いよいよパウロはエルサレムに上る。旅の中で募った募金をエルサレム教会に届けるためである。しかし予想された通り捉えられ、今、総督フェリクスの前に立つ。
 訴因は@世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こす疫病の様な存在。Aナザレ人の分派の首謀者。B神殿の冒涜者と云うものであった。
 これに対してパウロはその弁明において@父祖の神に仕え、A預言と律法の書に記されていることのすべてを信じ、B義人にも不義な者にも復活があると言う望みを神に対して抱いており、この希望は(私を訴えている)この人達も抱いているものであるという三点を挙げる。ユダヤ人達が挙げた訴因は何れも立証不可能なものばかりであった。パウロに語らせまいと騒動を引き起こしてきたのはむしろ彼らの方であったし、 分派など当時幾らも存在していた。B点目に至っては、それを目撃した者は此処に居ない。此処には一体何が描かれているのだろうか。不当な訴えに必死になって抗弁する一人の男の姿だろうか。パウロを亡き者にしようとするユダヤ人達の心の闇だろうか。実はその何れでもない。此処に記されているのはナザレ派の者たちの信仰宣言なのである。「宣言・告白」を英語でprofess(プロフェス)と言う。パウロにとっては、裁判も投獄も、死刑すらもすべてこのプロフェスの機会であった。この「プロフェスした者」をプロフェッショナルと言うのである。その意味では、言行録の使徒達こそは最初のプロフェッショナル達であった。

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2020年7月26日 聖霊降臨節第9主日

説教:「破局を乗り越える」
聖書朗読:使徒言行録 第27章33〜44節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「予定変更ですか。いや、予定通りです」

 26章32節に「あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放して貰えただろうに」という言葉がある。アグリッパ王が総督フェストウスに語った言葉である。しかしパウロは、自らの命を惜しんで最後の足掻きを為し、それに失敗したのでは決してない。それがむしろ最も危険な選択である事を知りながら、ローマ伝道の実現のために彼は船に乗るのである。
 その中で嵐に出会い、船はその積み荷を捨て、船具をも捨てて、幾日もの間、「太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶ」中をむなしく漂う事になる。そして彼らは「助かる望み」を失うのである。しかしこれはどこかでみた表現ではないだろうか。そう、創世記1章2節「地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」がそれである。原文を直訳するとこうなる。「この地は、形無く虚しく、暗闇が諸々の深い淵を覆い、その上を神々の霊が激しく吹き巡っていた」となる。「この地」には水(海の要素)も含まれていて、太陽、月、星は創造の前なので存しない。そこに「光あれ」と云う言葉があって、光が到来する。
 パウロは如何なる時にも、この神から到来する光に目を注ぎ、これに希望を置いていたが、その内面がこの船旅の中で如実に現れるのである。船頭や千人隊長の判断の誤りを責める事無く、むしろ彼らを励まし、慰め、神から到来する希望を語る。
 感謝の祈りとパン裂きによるパウロの食事は主の聖餐を指し示している。闇と嵐の中、一切の希望の潰えたその場所で、命のパンが裂き与えられるのである。同乗したすべての者たちの思いはどんなだったであろうか。一人の囚人、しかし彼は神の囚人であり、その信仰によって、すべての者に希望が宿り、神が予定された港に導かれたのである。

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