日本基督教団 洛北教会

2020年 教会標語「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(ヘブライ人への手紙8章10節)

先週の説教 -バックナンバー-

20年8月のバックナンバーです。

2020年8月2日 聖霊降臨節第10主日

説教:「あなたを励ますもの」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙第2章1〜4節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「同じ思い、誰と?」

 今日のテキストである2章1〜4節は、原文では一つながりの文章であり、その初めに「もし〜」で始まる条件節が四つ繋げられて提示されている。この「もし」は仮定のもしではなく、事実を強調するための定型句としての「もし」である。つまり、「もし与えられているのなら、否、事実与えられているのだから」ということになる。
 即ち「励まし」も「愛の慰め」も、「霊の交わり」と「慈しみと同情」も、その全部が神からの恵みで在る事を思い起こさせるために彼はこれを書くのである。とすれば、「同じ思いとなり」、「同じ愛を抱き」、「心を合わせ」、「思いを一つにする」、そのことが、この神の恵みに対する「応答」であることを、それは示すのである。
 更にこの四つの条件節の後には「私の喜びを満たして下さい」という命令文が置かれている。これが1〜4節全体の主動詞なのであるが、その主眼点は、フィリピの教会の人々が「同じ思いとなり、へりくだる」ことにある。
 これがフィリピの教会が目指すべき成長の到達点であり、またその目標なのであるが、そこにはどのようして至る事が出来るのであろうか。私の喜びを満たせとか、同じ思い、同じ愛を抱けとか、パウロは此処で己を中心としてこれを命令しているのであろうか。云うまでも無くそういう事ではない。
 「励まし」と「愛の慰め」と「霊の交わり」と「慈しみと同情」、その全てを与えて下さったのは他ならぬ主キリストである。だから、その主キリストと「同じ思い」、「同じ愛」を抱き、「心を合わせ、思いを一つにして」、主がそうして下さったように、互いにへりくだって、隣人に仕え、教会に仕え、そのことを通して神に仕え、主キリストの喜びを満たす者となろう。これがパウロの祈りであり、また求めなのである。

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2020年8月9日 聖霊降臨節第11主日

説教:「生き方を変える」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙第2章5〜11節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「救助には、連係プレーが必須です」

 5節はこのままだと、「キリストイエスを模範として、以下の事を心がけよ」と言う意味にしか取れない。しかし原文の後半は「それはまたイエス・キリストの中で、」でという動詞のない一文であり、共同訳は「見られる」を補って訳している。前半の「心がけよ」も意訳であり、原文に即して言えば「このことをあなた方の心の中で思え」となる。何を思うか。6〜11節までのキリストの低さをである。
 つまりこの箇所は「上」にある「模範」を語っているのではなく、「下」にある「恵み」を語っているのである。『イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神が崇められる』に至ったのは、「下にある恵み」即ち「キリストの低さ」の故であったと言うのである。以下はその恵みの構造である。
 イエスは自分を空にする。(7節) ⇔ 神は与える。(9b節)
イエスは自分を低くする。(8節) ⇔ 神は高く上げる(9a節)
 つまり、自分を「空にする」イエスに神が「与え」、「低くする」イエスを神が「高くする」のである。自分を無にし、神の身分を捨てて人となったイエスは、更に十字架の死に至るまで己を低くした。そのイエスに神は「すべての者にまさる名」をお与えになった。それはすべての者がその名の前にひざまずき、「イエス・キリストは主である」と告白するためであった。此処に述べられているのは父と子の「救いの連係プレー」である。救われるのは子犬や子猫ではない(犬や猫も大事ですが)。救われるのは人間である。だから神の独り子が、その命を懸けて下さったのである。その救いとは真の人生の主を見いだし、イエスをキリストであると告白する事である。

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2020年8月16日 聖霊降臨節第12主日

説教:「よろこび」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙第2章12〜18節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「キリスト者の喜び」

 ここには三つの事が語られています。一つ目は12節の最後「恐れおののきつつ自分の救いを達成せよ」という勧めです。「達成せよ」というと、「自分を救うのは自分だ」という事になるがそうではない。ここでいう「達成」とは「果たす」と云う意味である。それは生涯の終わりまで、その救いの恵みに留まり、右にも左にも逸れず、己の人生の中に主の愛を完成させよという意味である。また、ひとが「恐れおののく」のは、「自分を低くしたイエスを高く挙げる」という神の救いが、人間の思いをはるかに超えるものだからである。この神への恐れから神への従順が生まれるのである。
 二つ目は14節の「不平と理屈」。原文では「諸々の不平と諸々の理屈」。つまりフィリピの教会はこれらのもので満ち充ちていたようです。「不平と理屈に満ち充ちた教会」、あー、考えただけでもゾッとしますね。でも、ありそう。この教会を「とがめられるところのない純真な者となり、ゆがんだ邪悪な時代にあって、傷のない神の子どもとなって、この世で星のように輝き、命の言葉をしっかり保つ」教会(14節b〜16節a)とするために、パウロは自分の血が祭壇に注がれても構わないと語ります。これが三つ目の事です。
 その要諦は「喜び」です。今獄中にいるパウロが「喜び」を語るのです。ならばその喜びは「監獄」という、おおよそ人間が作り出した、この世における最低、最悪の不名誉な処遇をも、軽々と超え出るものがあることを私たちに教えます。それは、「非の打ち所のない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つ」者を造り出して下さる神の御業に生きる世界です。神の御栄光を照り映えさせて生きる人生。それは先週学んだように十字架の主によって贖われた人生です。

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2020年8月23日 聖霊降臨節第13主日

説教:「何に頼るか」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙第3章3〜8節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「高さを超える低さ」

 フィリピ書は3章2節から突然「犬ども」への攻撃を始める。3節に出る「彼ら」とは、「割礼」を重視し、「肉」に頼り、「律法の義」を求めるユダヤ人キリスト者たち、即ちエルサレム教会を中心としたユダヤ化主義者達の勢力のことである。
 本来「割礼」は「契約のしるし」であり、神の契約を体に記して永遠の契約とするための行為であった。神はアブラハムに「土地」の支配と「子孫」の継続を約束したが、まさにその約束を受け継ぐものである事を「割礼」によって担保したのである。
 しかしパウロはそれを「切り傷に過ぎない割礼」と呼ぶ(2節)。そして「私たちこそ真の割礼を受けたものである」といい、その根拠を「神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないから」であると云うのである。
 ここで大切な事は「肉」と「霊」の対比である。肉とは、人間の能力に信頼し、律法を守る事によって救いを獲得しようとする生き方の事であり、それは神への信頼とは全く逆の生き方であるとパウロは語る。逆に「霊」とは、神が遣わした「キリスト・イエスを誇りとして」生きる生き方の事である。ここでパウロは一体何を乗り越えて行ったのだろうか。そしてそれはそんなに簡単に乗り越えられるものであったのだろうか。私はそうでは無いと思う。ユダヤ人にとって割礼こそ自民族のアイデンティティーを確立し、守り、維持する唯一のしるしであった。しかしそれが、その故に肉なる我の拠り所となり果てた現実を見て、その超克をパウロは語るのである。その根拠は彼の思想であるか、そうではない。その根拠は彼と出会って下さった主キリストの低さにあった。彼は高きにおいて乗り越えたのではない。キリストの低さに拠って、肉なるものの高さを超えたのである。それが2章に於いてキリストの低さが語られたことの理由なのである。

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2020年8月30日 聖霊降臨節第14主日

説教:「天の国籍」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙第3章17節〜4章1節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「キリストの一度限りの低さが私たちに冠を与える」

 2章1節以降を学んだとき、「キリストを模範とせよ」という表題が如何に不適切なものであるかを縷々述べさせて頂いた。2020年8月30日もそこから出発したい。
 2章の8節に、「へりくだって、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順でした」とあるが、この「へりくだって」の直訳は「自分を低くした」であり、しかもこれは過去に起こった一回的な行為を現す「アオリスト形」で書かれており、「謙遜であった」というような一般的な性質ではなく、「繰り返される事の無い十字架の死」をこそ指しているのである。十字架の死を模範にする事など、人間には出来ない。
 そのかけがえのない出来事こそが、私たちを救うのである。そのことが「わたしたちの本国は天にあります」(20節)という言葉で表明されているのである。本国とは国籍のある場所であり、私たちは今、この地の上に生きてはいるが、地は本国ではない。地に国籍を持つ者は、「腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世の事しか考えない。その行き着く先は滅びである」と云う。腹とは己自身という事であり、これは主にエピクロス派の主張を指している。また「恥ずべきものを誇りとし」は直訳すると「彼らの栄光は彼らの恥」であり、自分に栄光を帰する生き方が最終的に滅びにつながる事を言っている。
 コロナ禍の今、国民のために命を捧げて仕えなければならない立場にある人々が、己の栄達を計ろうとし、また保身に走る姿を見ていると、まさに地上の事しか考えない者たちによる「滅び」の到来を見る思いがする。その中で「プロフェッス(告白)」した人々による献身的な奉仕が、今、人の命を守り、支えている。その人々をキリストがご自分の栄光の形に変えて下さるとパウロは云う。「我が国籍は天にあり」、これがその告白の中味である。

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