先週の説教 -バックナンバー-
20年9月のバックナンバーです。
20年9月のバックナンバーです。
説教:「満ち足りて生きる」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙 4章10〜19節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「今日は、人生の秘訣を授けて進ぜよう」
今日のテキストの12節は個人的に大好きな箇所です。
「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」。本当に素晴らしい事だと思います。自分もこうありたいと思うのです。
12〜13節を直訳すると次のようになります。
あらゆる事の中で、すべての事の中で、私は秘訣を授けられた。
満腹させられる事も、飢える事も、
あふれている事も、欠いている事も、
すべての事に、私は力がある。私を強める方の中で。
つまり、私を強める方の中で、あらゆる事、すべての事において、私は秘訣を授けられ、力を与えられる。だから私はどんな状況にも対処できると言うのです。
実はこの箇所(4:10〜19)は、フィリピの教会からの支援に対する感謝の手紙(お礼状)なのですが、それすらもパウロは貴重な教えの手紙にしてしまいます。
10節に出る「喜び」の出所を、単にものを貰った事に終わるのではなく、「必要」(クレイアー)と「満たす」(プレーロオー)の関係性によるものである事を示すのです。19節の「必要なもの」と「満たして下さる」、16節の「窮乏」、18節の「満ち足りています」がそれです。つまり、パウロの窮乏はフィリピの教会の贈り物によって満たされましたが、フィリピの教会の必要は、神が満たして下さると言うのです。
まさにこのこと、即ちすべての事柄に於いて「神との関わりの中に生きる事」が、パウロの喜びの源泉であった。それさえ見失わなければ、飢えの中でもそれに耐え、富の中でもそれを神に捧げていく事が出来る。これこそ最高の人生の秘訣です。
説教:「委託への応答」
聖書朗読:テトスへの手紙 1章1〜9節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「象 徴」
今日の箇所には初代教会の三つの「職名」が出てくる。「使徒」と「長老」と「監督」である。原文ではそれぞれアポストロス(apostolos)、プレスビテーリアン(presbyterian)、エピスコポス(episkopos)と云う。
「使徒」とは狭義には生前のイエスによって立てられた12名の事であるが、御復活のイエスと出会い、宣教の使命を与えられた者としてパウロを加えるのである。カトリック教会ではこの使徒の権威を継承する者が「監督」であるとする。その具体的な呼称は「司教」である。その最上位の者がローマ司教である教皇であるとされる。監督を置かないプロテスタントの教派の中には監督=長老とするところもある。
長老だけが旧約聖書時代からある職名で、民のグループごとの長(おさ)の役割を担い、生活上、信仰上の責任者となる。ここではその長老達に対して、非難される点がない事、一人の人と結婚している事、子供にも信仰を継承させている事、放蕩者でなく、(神に)従順である事の5点をその条件として挙げている。
監督は神から任命された管理者であるとされ、その資質として12の条件を挙げている。両者の相違は「長老」が「町ごとの責任者」であり、かつ「複数形」であるのに対し、「監督」は「単数形」であることに鑑みれば、監督は複数の長老達をまとめる立場にあったことが想像できます。
ここで大事なことは、初代教会の職制がどんなものであったかではなく、教会が自己形成のための秩序を、神との関係の中で、少しずつ、しかし誠実に形成していったと云うことです。その中心は「信仰の継承」と「相互の仕え合い」と「放蕩の排除」、そして「神への従順」です。つまり監督も長老もすべての信徒達の「象徴」であり「お手本」なのです。
説教:「人生への教育」
聖書朗読:テトスへの手紙 2章1〜14節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「先輩の日を覚えて」
2章1節の「健全な教え」は、1章13節からの流れに於いて語られています。具体的に「健全な教えを保つ」とは、「ユダヤ人の作り話や真理に背を向けている者の掟に心を奪われないように生きること」を指しています。「ユダヤ人の作り話」という言葉はテモテヘの手紙一1章4節、4章7節、テモテヘの手紙二4章4節にも使われており、それらを総合すると、<うわさ話、言い伝え、虚偽の物語、架空の作り話>などを指しています。これに対して教会の指導者は、「健全な教え」即ち「真理と向き合う生き方」にもとづく教えを語りまた生きなければならないと言います。ここで真理とはそれを必死になって求める者に徐々に開示されていく「神の御心、知恵、計画、摂理」の全体を指す言葉です。
そのような生き方を、ここでは「年老いた男」、「年老いた女」、「若い男」、「若い女」、「奴隷」達に教えるよう勧めが語られます。そして最後に、これらの勧告の根拠が示されます。それが11〜15節です。冒頭の部分を直訳すると「なぜなら(実に)神の救いの恵みがすべての人に現れ、教育しながら私たちを次のように〜」となります。
主語は「恵み」であり、「教育しながら」が「恵み」にかかる分詞形となっています。その教育内容が「次のように」で始まる従属節に書かれていますが、その主語は「私たち」であり、これに12節「欲望を捨てて」と13節「待ち望む」がかかります。
つまり大切なことは、ここに書かれているすべての教育は、神の恵みが「私たちを教育する」から可能になると言うことです。私たちが終わりの時への希望を失わずに生きることが出来るのは、神の恵みに守られているからです。その恵みはキリストが十字架の上に自らを献げることによって実現した恵みです。そこに土台を置く人生、これを生きてこられた先輩達を覚え、これに続いて歩むものでありたいと思います。
説教:「人生に記された御名」
聖書朗読:ヨハネの黙示録 14章1〜5節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「神に買い取られた者たち」
世の終わりの有様を描く12〜14章がヨハネ黙示録の中心軸となります。先ずは数字のことから。「14万4千人」というのは7章4節にも出ており、5節以下には「ユダ族の中から1万2千人、ガド族の中から〜」とあり、イスラエルの12部族の中から1万2千人ずつが刻印を押され、その総数が14万4千人となります。
「1万2千人」は1000×12ですから完全数です。それはつまり、殉教者の数が充ちたことを表しています。彼らは皇帝に屈しなかった神の民です。そしてこの人々が「地上から贖われた者たち」であり、彼らだけが「新しい歌」を歌うことが出来ます。
ここで「贖われた」と訳された動詞は「買う」を意味するアゴラゾーの完了受動分詞であり、「買い取られている」という意味ですが、この言葉は13章17節にある、「第二の獣によって右手か額に刻印を押された者でなければ物を買うことも売ることも出来ない」という言葉とつながっています。ここでの「買うこと」もアゴラゾーラなのです。
「第二の獣」即ち神に敵対するこの世の権力(ここではローマ皇帝のことが言われている)が押す刻印、それは偶像崇拝の刻印ですが、その刻印を拒否した14万4千人の救われた者たちは、この世における売買すなわち生きるための経済活動から閉め出され、塗炭の苦しみを味わいます。この、物を買い取ることが出来なくなった14万4千人を、しかし今度は神が買い取って下さった、それがここの主旨であります。
偶像を拝み地上での売買に精を出す人々にも刻印が押されていますが、その刻印は「カラグマ」であり、神に買い取られて天上で新しい歌をうたう人々に押された刻印は「スフラーギス」であり、その原意は「封印」です。その人々の中に神の恵みと摂理と永遠の命が封じ込められ、やがて天上で花開くのです。召天者記念の日に与えられた御言葉です。