日本基督教団 洛北教会

2020年 教会標語「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(ヘブライ人への手紙8章10節)

先週の説教 -バックナンバー-

20年10月のバックナンバーです。

2020年10月4日 聖霊降臨節第19主日

説教:「満ち足りて生きる」
聖書朗読:テモテへの手紙U 1章1〜12節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「共に生き、共に歩む」

 テキストの中心、6〜14節は以下のような構造になっている。
A)あなたに与えられた神の賜物を再び燃え上がらせるために、神は力と愛と思慮分別の霊を下さった。
B)恥じてはならない。私と共に苦しみを忍べ。
C)神が私たちを救い呼び出したのは神ご自身の計画と恵みによる。
この恵みはキリスト・イエスにおいて与えられ、明らかにされた。
B’)この福音のために私は苦しみを受けているが、恥じてはいない。
A’)あなたに委ねられている良いものを聖霊によって守りなさい。
 AとA’は「霊」と「聖霊」において対応し、「神の賜物」は「委ねられている良いもの」と言い換えられている。これを守るのはテモテではなく「聖霊」である。牧会に疲れたテモテが目を向けるべきは神が与えて下さった「力と愛と思慮分別の霊」であり、その働きである。牧師として長らく教会に仕えていると、この力と愛と思慮分別の霊がどれほど大切か判ってくる。「力」は日常の生活と牧会活動を推し進める推進力であるし、「愛」は共感と連帯の原動力であり、「思慮分別」は成熟した判断をもたらす基盤である。
 B,B’は「苦しむこと」なかんずく「共に苦しむこと」の大切さを教える。私たちが苦しむのは主が苦しまれたからであり、共に苦しむのは、その事だけが私たちを苦しみの先へと導くからである。大事なのは苦しむことそのものではない。大切なのは「共に」苦しむことである。その愛と共感の姿勢から、贖われた命が芽吹き、育つのである。
長い分散礼拝の時を私たちは過ごしてきた。今日からまた、共に神を見上げ、共に神を賛美し、共に祈る礼拝が再開される。みんなでその恵みを受け止めて歩み出したい。

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2020年10月11日 聖霊降臨節第20主日

説教:「共にあること」
聖書朗読:テモテへの手紙U 2章8〜15節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「私たちが誠実でなくとも」

 8節に「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」とあるが、この「思い起こす」はアナムネーシスで「常に想起せよ(動詞・現在・能動・命令)」と言う意味であり、忘れていたものを思い出すことではなく、今現実に傍らに居られる主イエスをリアルに想えという意味である。それが最もリアルに体験される場面が二つある。一つは主の御名によって祈ることであり、今一つが聖餐の食卓である。卓主は主キリストであるから。
 自分の肉体は鎖に繋がれていても、神の言葉は繋がれていない。誠にその通りであって、神の言葉はそれへの恐れによってこれ(神の言葉それ自体とその宣教者たち)を捉え殺してきた政治権力の弾圧によって、むしろ拡大宣布されてきた。
 今日の箇所の圧巻は11〜13節である。11節「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きる」とあるが、ここに「キリスト」という言葉はない。直訳すれば「わたしたちは共に死んだのなら、また共に生きる者となる」であって、パウロが言いたいのは明らかに「キリストによって神の恵みを知るすべての者と共に死に、共に生きる」事である。
更には12節、13節にも「キリスト」はという言葉はない。「その者(エケイノス)」という言葉が有るだけである。この「その者」が冒頭で想起された主キリストであって、それ以上言葉を重ねる必要が無いくらい、自分たちの中にイエス・キリストはリアルに居まし給うのである。
 すべての救いの根拠は「わたしたちが誠実(アピストゥーメン)でなくとも、その者が常に真実(ピストス)であること」による(ピストスはお馴染み、ピスティスの形容詞・主格・単数・男性形)。ここにパウロの福音の本質がある。初代教会はこの箇所を賛歌として歌ってきた。讃美歌もまた想起の一つ形なのである。

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2020年10月18日 聖霊降臨節第21主日

説教:「人生の基盤」
聖書朗読:テモテへの手紙U 3章10〜17節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「水曜日の聖書研究会、ご出席をお待ちしています」

 テモテの教会には、「キリストと共に死に、共に生きる」事を忘れて、「聞く者を破綻させる」異端者達がいました(2章14節)。彼らは「復活はもう起こった」と主張する人々であり、「俗悪な無駄話を語る者たち」です(2章16,18節)。パウロが語ったのは肉体の復活であったが、この人々は復活を「霊的復活」と捉えてその完了を主張していたのです。この考え方は、ヘレニズムの思想には受け入れやすいものであったと思われます。
 しかしパウロはここで、正しい信仰に生きる人の「二つの徴」を語ります。一つは「迫害」であり、具体的には「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受ける(12節)」という事です。今一つは「聖書」であり、「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができる(15節)」ということです。その人が迫害を受けているか否か、そこにその人の信仰の真否がある。何故そう言えるかというと世は偶像を崇拝しない者を憎むからである。
 それに対して聖書は「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする」(16節)ことにおいて、「救いに導く知恵を私たちに与える」(15節)。
ここでの知恵は<グノーシス>ではなく<ソフィサイ(ソフィア)>、名詞ではなく動詞のアオリスト・能動・不定詞であり、「賢くさせること」を意味します。訳せば「救いに向かって私たちを賢明な者とすること」となります。
 私たちは霊的復活者ではなく、地にあってなお肉体を持って生きる者です。またグノーシス主義者が言うような「救いに導く知恵」を既に持っているわけでもありません。しかし私たちにはキリスト・イエスとの強い絆があり、その霊の導きがあります。その全ての力を私たちは活ける神の言葉である聖書から頂くのです。

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2020年10月25日 聖霊降臨節第22主日

説教:「義の栄冠」
聖書朗読:テモテへの手紙U 4章1〜8節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「どちらが本当ですか」

 

 今日の箇所は、教会の牧師就任式などでよく読まれる箇所です。わたしも大阪教区の議長をしておりましたとき、教区内諸教会の就任式を司式するとき、いつもこの箇所を読んでおりました。しかしこの箇所を幾度も読み、また説教をしている時、いつも私に頭にあったのは次のことでした。まず3〜4節には「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」とありますが、どちらの陣営も「自分たちが正しく真理である」と考えているのでは無いか、と云うことです。自分たちが真理の側にあることをどうすれば知ることが出来るか。
 それはこの手紙(今日の箇所)によれば、@再臨のキリストを待望し、A神の国の前進を信じ、B自らをいけにえとして献げて生きること、この三つを持つ者が「真理の言葉を正しく教える教師」であるということになる。しかもパウロは6節で「わたし自身は、既にいけにえとして献げられてい」ると語っているが、ここの原文は「注がれている」であって、「自分の血は既に注がれている」と言っているのです。
 テモテに敵対する偽の教師達はキリストの復活も再臨も信じてはいません。ある神学校の年次大会で記念講演をした講師が、並み居る牧師達を前に、「今時キリストの復活が歴史的事実であると信じている者はこの中には殆どいないと思うが」と語りました。
 このような人々はいつの時代にもいるのです。わたしたちも今日のこの箇所をわたしたちに語り掛けられた言葉として聞きたいと思います。 そして6節にあるように、「戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜き」主の栄冠を目指して歩む群れでありたいと思います。

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