先週の説教 -バックナンバー-
20年11月のバックナンバーです。
20年11月のバックナンバーです。
説教:「対立を超えるもの」
聖書朗読:マルコによる福音書 12章28〜34節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「二つは一つ」
今日の箇所はいわゆる「愛神愛隣の掟」と呼ばれてきた箇所である。しかも「この二つに優る掟はない」といわれる。これは元々旧約聖書の中に在る言葉で、「第一の掟」は「聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6章4,5節)の引用であり、第二の掟は「隣人を自分のように愛しなさい。私は主である。」(レビ記19章18節)からの引用である。
この二つの言葉を一つにまとめたこと、ここにイエスの新しいつまりこの二つの掟を別々のものとするのではなく、一つの事柄として捉えていることが重要なのである。つまり神を愛することと人を愛することは別々のことではなくて一つの事だというのである。またここでいう第一、第二は掟の軽重や序列をいう言葉ではなく、一つはこれ、今一つはこれと云う意味であり、両者は完全に対等の掟なのである。
今日登場する律法学者はイエスに対して敵対的ではなく融和的である。いやむしろイエスに対して敬意を抱き真の師と仰いだ態度で接している。それが彼の応答に示される。即ち「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」と答えるのである。
ここに先の二つの掟が見事に融合されて一本化しているのをお判り頂けるであろうか。「人を愛することが神を愛することであり、神を愛する者は必然的に人を愛するのであり、人を愛さない者は神をも愛してはいない」。だからイエスにとって神を愛することが、即ち私たちを愛し抜くことだったのである。
説教:「真の権威」
聖書朗読:マルコによる福音書 12章38〜44節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「新たな歩み」
律法学者とやもめの対比である。何が対比されているかというと、それぞれの生き方が対比されている。そしてその生き方とは即ち己自身を何の権威によって生きる者とするかと言うことである。律法学者に於いては、それは次の四つのものにおいて表されている。即ち「長い衣」、「上座」、「上席」、「長い祈り」である。それらはすべて神からではなく、人から来る権威である。よって律法学者は人から来る権威を好み、その権威を生きていることになる。「宗教者」である律法学者にとって、それは決定的な誤魔化しであり、神と人への欺きである。だから彼らは「人一倍厳しい裁きを受ける」のである。
一方、やもめはどうか。貧しいやもめがレプトン銅貨2枚=1クァドランスを賽銭箱に投げ入れる。1クァドランスとはローマの青銅貨で1デナリオン(一日の労賃)の六十四分の一であるから確かに少額である。しかしイエスは「誰よりも多く入れた」という。それは何故か。44節の後半を直訳すると次のようになる。「だがこの女は、彼女の欠乏の中から、彼女の持っているものをすべて入れた。彼女のビオス全体を」となる。
ここ数年、洛北教会に生きてこられた方はご存じであろう。あのビオスとゾーエーのビオスである。これは端的に個人の命を指す言葉であり、イエスは此処で「あの女は自分のビオス全体を入れた」、即ち「自分の命=生涯をすべて注ぎ込んだ」と言っているのである。
要するに、このやもめは神から与えられた己の生涯を、まるごと神に捧げたのである。それは、このやもめが神への絶対的な信頼に生きていたからである。
41節に「見ておられた」とある。主イエスのまなざしがこの女にこそ注がれるのである。この女の神への信頼をしかと見届けられたことの証しであり、イエスはこの後、この女の証しにしかと答える歩みを始められるのである。
説教:「あなたを救うために」
聖書朗読:マルコによる福音書 13章24〜32節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「終末を生きる」
世間には「終末論」という言葉がある。また日本人になじみ深いのは「末法思想」と云う言葉であろうか。何れも、この世が滅びていく有様を語る言葉として機能してきたのではないかと思う。
今日のこの箇所も、まさしくその終末の時に何が起こるかを書き記した箇所である。
「太陽は暗くなり、月は光を放たず」と云うのであるから、要するに世界から光が消えるのである。
更には「星は空から落ち、天体は揺り動かされる」、即ち天の運行が崩壊する。天地創造の始めに神が定められた天の秩序が崩壊するのである。つまり、世の初めに、神が造り出されたコスモス、即ちその秩序が失われ、カオス(無秩序)の世界に退行する。それはどんなに恐ろしい世界であろうか。
しかし、その恐るべき崩壊と滅亡の有様を語ったあと、聖書は次のように語る。
30節「よく言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。」
31節「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」よく見て欲しい。聖書は此処で二つのことを語っている。即ち、やがて滅びる「この時代」と、決して滅びることない「私の言葉」の二つである。
終末とは何か。それは、やがて移ろい滅び行く「この時代」と、その中で、たとえ埋もれているように見えるかもしれないが、やがてその姿を明らかにする「神の言葉」の永遠性それ自体である。私たちが目を注ぐべきもの、また私たちに注ぎ与えられる恵み、それがこの神の御言葉の永遠性なのである。私たち一人一人、この神の言葉の永遠性にこそ、己の生涯を懸けて生きる者でありたい。
説教:「真理とは何か」
聖書朗読:ヨハネによる福音書 18章32〜37節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「何に属して生きるか」
今日のテーマは、自分が何に属しているかと云うことである。人々は明け方にイエスを総督官邸に連れて行くが中に入ろうとはしない。理由は過越の食事をするためには汚れてはならないからである(28節)。考えてみればこれは凄いことである。ローマ総督ピラトであっても、異邦人であるから本人は元より、彼の過ごす官邸もまた汚れているというのである。これがユダヤ人たちの属する世界である。
そこで、ピラトがユダヤ人のところに出てくるのである(29節)。私がピラトなら、「ふざけるな。私とその居所が汚れているというのか。ならばおまえたちは、その汚れている者に裁きを求めにきたのか」いうであろう。けれどもピラトはそうしない。いわば唯々諾々と、ユダヤ人に寄り添うのである。理由はただ一つ、ユダヤ人の暴動や反乱を恐れていたからである。数年間を無事に治め終えてローマに召喚されること。それだけが地方総督の望みであった。それがピラトの世界であり、唯一の行動基準であった。
そしてイエスは云う。「わたしの国は、この世には属していない」(36節)と。そして更に云う。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と。
「真理とは何か」、これはピラトの問いであるが、ヨハネ福音書における答えははっきりしている。「わたしは道であり、真理であり、命である(14章6節)」。即ち、真理とはイエスご自身の事であり、命も道もイエスご自身である。とすればピラトは問い方を誤った。真理とは何かではなく、「真理とは誰か」と問うべきである。真理とは主キリストと父と聖霊の三位一体の人格的交わりと、その真実それ自体である。
説教:「目は覚めていますか」
聖書朗読:マルコによる福音書 13章32〜37節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「『つつ』が大事」
「日本基督教団信仰告白」に次の一文がある。「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集いなり。教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行い、愛のわざに励みつつ、主の再び来たり給うを待ち望む。」大切な大切な、「教会の定義」を行っている箇所である。
さて、ここで最も重要な部分は何処であろうか。最も大切なのは「愛のわざに励みつつ」の「つつ」であると言うと驚く人も居られるかもしれない。「公同の礼拝」「福音の宣教」「聖礼典」「愛のわざ」、これらはすべて教会にとって重要なことであるが、それが最終のことではない。教会にとって究極のことは、これらのわざに励み「つつ」、「主の再び来たりたまふを待ち望む」ことなのである。この目的を導く言葉として、この「つつ」が重要なのである。
教会の諸活動はこの「つつ」によって、その全てが「主の再臨」に方向付けられている。その一つの表れが今日のテキストであり、その中の「目を覚ましていなさい」なのである。教会とは主の再臨に向けて、それをこそ待ち望みつつ生きる群れなのである。
主が再び来たり給う日のことを教会では伝統的に「終末」と呼ぶ。聖書が述べる終末とは悪が支配する古い世が、神の支配が隅々まで行き渡る新しい世に飲み込まれる時ときのことである。これを別の表現で「神の国の到来」とも言う。キリストの到来によって、この神の国の到来が始まった。その既に始まった神の国が完成する時、それが主の再臨の時なのである。だからそれは待ち遠しいのである。
その時を待ち望みつつ、キリスト者は生きる。その待ち望みは、個々人の肉体の死を超えて、神の中に生き続ける。だから、この「つつ」が重要なのである。