日本基督教団 洛北教会

2020年 教会標語「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(ヘブライ人への手紙8章10節)

先週の説教 -バックナンバー-

20年12月のバックナンバーです。

2020年12月6日 待降節第2主日

説教:「悔い改める喜び」
聖書朗読:マルコによる福音書 1章1〜8節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「奉仕と犠牲」

 バプテスマのヨハネを表現する最も適切な言葉とは一体どんなものだろうか。「先駆者」、「先駆け」、「露払い」などなど。先駆者と先駆けは同じだと思われるであろうが、その性格は若干異なる。前者は「者」に重点があり、後者のそれは「駆け」にある。 先駆者はその道を切り開いた原点となった者でありまた出発点でもある。すなわちその本質を最初に発見し、確立した者のことである。しかしヨハネは福音の原点ではない。もうすぐその命の原点が到来する。そのことをあらかじめ告げて、人々にそれを受け入れる準備をさせるために使わされた「前触れ」なのである。
 イエスを中心として、聖書に登場する人物をBefore・After(ビフォー・アフター)に別けることが出来る。前者はキリスト到来以前の世界に生き、その到来を告げ知らせた人々である。ヨブもイザヤもエレミアも、皆そうである。だとすれば洗礼者ヨハネはキリスト到来の新時代の幕開けの先触れであると共に、旧約聖書の時代、ことにすべての預言者の最後を飾る人物でもあった。
 それで、今日の福音の2節には「預言者イザヤ」が登場する。また6節の「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め」とあるが、これは預言者エリヤの服装と同じである(列王記下1章8節)。特にエリヤは救いが到来する「終わりの日」にメシアに先駆け再来する預言者として待望されていた。次にキリスト到来後に現れる人々。これは水だけでなく「聖霊で洗礼を授けられた」人々である。その全く新しい人間が生まれるために、バプテスマのヨハネは主イエスに水の洗礼を授けねばならなかった。それが彼の払った犠牲である。ヨルダン川の東岸までイスラエルの民を導きながら、自らはそれを渡れなかったモーセのように、私たちもまた「神の人」の奉仕と犠牲によって導かれていくのである。

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2020年12月13日 待降節第3主日

説教:「先駆者」
聖書朗読:ヨハネによる福音書 1章6〜8、19〜28節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「指し示す人生」

 一人の人が神から遣わされてやって来た。その使命は自分の後にやって来る真の光について証しすることである。その人の名はヨハネ。この時、イスラエルの人々は重大な困難の中に生きていた。ローマの支配の中で、自分たちを解放してくれるメシアの到来を待ち望んでいたのである。そしてメシア到来に先駆けて預言者エリアの再来がある。だから人々は荒野に現れたバプテスマのヨハネの元に人を使わして「あなたは誰か」と問うたのである。
 これに対してヨハネが答える。自分はメシアではない、エリアでもない、あの預言者でもないと。「それではあなたは一体何者なのか」これは当然の問いである。これに対してもヨハネは答える「自分は声である」と。「声」とうことは音だけがあり実体はないということである。もちろんここで「実体がない」というのは虚無だとか無責任ということではない。ここで実体がないというのは「私が最終の目的語ではない」とう意味であり、さらには「私は指し示す者である」と云うことである。
 この世界に「自分を指し示す者」は掃いて捨てるほどいる。自己の名誉と栄達を己の人生の究極の目標とする者たちである。この人々にとっては、勲章と銅像はたまらない魅力を持つに違いない。そのような世界の只中で、ヨハネは自分は自分の後に来られる方を指し示す者に過ぎないと云うのである。
 ここで私は考える。自分は自分を指し示せるだろうかと。私は知っている。自分の中に人々に向けて指し示せるものなど何も無いと言うことを。しかしだからこそ思う。こんな自分でも、否、こんな自分だからこそ、指し示せるものがあることの幸いを。光、真理、真、慈しみ、そのありかを指し示しつつ生きる者でありたい。

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2020年12月20日 待降節第4主日 クリスマス礼拝

説教:「恐れるな」
聖書朗読:ルカによる福音書 1章26〜38節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「クリスマスの低さ」

 今日の聖書箇所には、マリアの思いを示す言葉が三つ出てくる。一つ目は29節の「戸惑い」とうい言葉であり、二つ目は34節の「どうしてそんなことがありえましょうか」、そして三つ目が38節の「お言葉通りこの身になりますように」である。
 自分の思いを超える神の言葉に対して、この少女は「あり得ないことで不可能だ」と、自分で結論づけることをしない。天使が彼女に告げた二つの事をしっかりと受け止める。
「おめでとう」そして「恐れることはない」がそれである。
 「おめでとう」は原語では(κεχαριτωμενη・ケカリトォゥメネィ)「恵まれた[者]」という意味で、単なる祝福の言葉ではなく、既に与えられた現実をいう。しかも神によって与えられた圧倒的な現実を提示する言葉である。これに対して「恐れることはない」は「あなたは恐れるべきではない」(μη φοβου メィ フォブー)となっていて、この圧倒的な恵みを到来に対して、これを回避すべきではないという力強い勧告となっているのである。「汝、受け止めよ」という呼びかけである。
 これに対してマリアは「お言葉通りこの身になりますように」と答える。これもニュアンスは微妙に異なっていて、原意は「あなたの言葉が私に成就するように」であり、「身」を意味する言葉は存在しない。新共同訳の場合、「言葉」と「この身」は互いに独立した別物であるが、原意では「私」が直ちに神の言葉の成就なのである。  これは「私は神だ」ということでは勿論無く、このはしためが、その全存在を以て神の言葉を受け止め、その言葉の成就となるということである。この一人の少女の謙遜と仕えがあって、そこに神の御子の受肉が成し遂げられたのである。この朝、私たちも言いたい。私の人生にあなたのお言葉が成就しますようにと。

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2020年12月24日 燭火讃美礼拝

説教:「命の言葉」
聖書朗読:ルカによる福音書 2章1〜20節
説教者 : 岡本知之牧師

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2020年12月27日 降誕節第1主日

説教:「悟る者」
聖書朗読:ルカによる福音書 2章1〜14節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「ルカの視点 … アウグストゥスvsイエス・キリスト」

 

 皇帝アウグストゥス、本名オクタヴィアヌスはローマ帝国の初代皇帝である。アウグストゥスとは「崇高なる者」を意味する尊称であり、ローマ元老院からこのような尊称を与えられたのは、彼が帝国に平和をもたらした功労者だからだ。
 彼が世界に向けて出した布告が「エウアンゲリオン」即ち「福音」と呼ばれたのである。それを帝国内に告知するもが「アンゲロス」即ち「伝令」である。ローマが世界の中心であり、世界とは即ちローマ帝国のことであった。まさに「すべての道はローマに通ず」である。
 そこに、世界の中心、「地」」からではなく、「天」からの伝令が羊飼い達に近づき告げるのである。「民全体」(新共同訳)、「すべての民」(聖書協会共同訳)、「全世界」(岡本訳)に大きな喜び即ち「エウアンゲリオン」を告げると。
 そしてその中味は、世界の中心ローマから遠く離れた「ユダヤのベツレヘム」という辺境の地で「宿屋に泊まるところのなかった」一組の夫婦が生んだその「乳飲み子」こそが真の真のエウアンゲリオンであるというのである。
 もうこれ以上言葉を重ねる必要はないであろう。世界の中心対世界の辺境、ローマ皇帝対乳飲み子、大宮殿対家畜小屋、インサイド(ローマ市民)対アウトサイド(羊飼い)、これほど見事な対立項はないであろう。そしてルカは問うのである。このどちらに真の救いはあるのかと。
そしてルカは一つの場面を示す。羊飼いらは急いで行って、天使達の告げた幼子を見つけ、神をあがめ、賛美しながら帰って行ったと。そして言う。これが本当の救いを見た者たちの姿であると。テーマは闇の中の光である。真の祝福、真の恵みである。

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