日本基督教団 洛北教会

2021年 教会標語「あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」(申命記31章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

21年1月のバックナンバーです。

2021年1月3日 降誕節第2主日

説教:「主はあなたと共に歩まれる」
聖書朗読:申命記31章1〜8節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「神からの励まし」

 今日の聖書箇所は2021年の年間標語として選定された箇所である。毎年標語解説の文書を書いてきたが、本年はこの説教黙想を以てそれに代えたい。この箇所はモーセが120歳になって最早自分の務めを果たせないという言葉で始まるが、それはモーセがヨルダン川を渡ることが出ない本当の理由ではない。何故なら34章の7節に「モーセは死んだときに120歳であったが目はかすまず、活力も失せてはいなかった」とあるからである。
 モーセが川を渡れなかった本当の理由は3章に書かれている。それは要するに、約束の地の南側から派遣された偵察隊の報告を信じることが出来ずに、主の言葉を信ぜず、さらに主に不平を述べたことによる。つまりモーセは彼自身の罪というよりは、民の罪によって、約束の地に入ることを許されなかったのである。そこでモーセは自分に代わる新しい指導者を立てる。それがヨシュアである。モーセにはそれは理不尽と映ったであろうし、続くヨシュアにも、それは恐れを抱かせるものであったであろう。  しかしモーセは、その只中で1〜6節と7〜8節の言葉を語るのである。前者は民に向けての言葉であり、後者はヨシュアに向けての言葉であるが、そこには全く同じ要素が現れる。抽出すれば「強くまた雄々しくあれ、恐れてはならない」であり、今一つが「主ご自身があなたと主に居られ、主があなたを見放すことも、見捨てられることもない」という言葉である。
 自分も約束の地に入りたいという懇願が神によって明確に退けられた後(3:26、27)、「ヨシュアを任務に就け、彼を力づけ、励ましなさい」(3:28)と命じられるのである。その実現が今日のこの言葉である。ここにはモーセの従順と彼の信仰とが息づいている。その言葉を神が取り上げて、いま自分自身のお言葉として我々にお与えになるのである。

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2021年1月10日 降誕節第3主日

説教:「何を信じるか」
聖書朗読:マタイによる福音書2章1〜12節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「何にひれ伏すか」

 今日のテキストには「星」が四度現れる。それは物語の背景に夜の「闇」を考えているからである。そして4章16節におけるイエスの宣教の初めには「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が差し込んだ」というイザヤ書の言葉が引用される。つまりイエスは闇の世に生まれた光なのである。  次に、「星」に関連して三度「拝む」という言葉が出てきます。三人は博士たちの「拝む」と、ヘロデの言う「拝もう」、そしてもう一度、博士たちの「拝んだ」です。博士たちの真の礼拝間にヘロデの礼拝が挟まっています。ここは一般的にはヘロデの心にもない偽りの発言と捉えられることが多いようですが、必ずしもそうとばかりは言えないと思います。
 即ち、ヘロデもまた拝んだのであります。但しヘロデが拝んだもの、それは幼子ではなく自分自身でありました。猜疑心が強く、常に恐怖心に苛まれていた彼は、三人の息子と妻、義理の母、また多数の家臣を次々と殺して行きました。こうして彼は、自分自身が光の世界に属する者ではなく、闇の世界の住人であることを世界に向けて証ししたのであります。
 ここで、この朝問われているのは、「あなたは何にひれ伏すのか」ということであります。占星術の学者たちが「ひれ伏して幼子を拝んだ」のは、真に礼拝し、身を献げる真実に出会ったからです。彼らは最早陰謀を企む王の元へは戻らず、「別の道を通って幼子が示す命への道を歩き始めます。
  闇があるのは朝を迎えるためです。自分の人生を通して、自分は一体何にひれ伏して生きるのか、その事を自らへの問いとして歩む一年でありたいと願います。人は自ら信じるところの者となるのですから。

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2021年1月17日 降誕節第4主日

説教:「時代を開くもの」
聖書朗読:マルコによる福音書1章7〜11節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「神の声、神の言葉」

 11節にある「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の言葉、神の声こそが、この段落の中心を為すものである。ここを直訳すると、「あなたはわたしの息子、わたしの最愛(アガペートス)の者、あなたによってわたしは喜ぶ」となる。
 旧約最後の預言者<マラキ>において神の言葉の告知が閉じられて以降、400年にわたってイスラエルの民は「神の声」を聞くことは無かった。このマラキ書の中に次の言葉が在る。<見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。(マラキ3:1)>
 もうお判りであろう、「道筋を整える」ことにおいてマルコはイザヤ書を引用するが、イエスの到来について、マルコは明らかにマラキ書の預言の成就をみていると言ってよい。ことに「声」の到来が重要である。まさにマラキに於いて閉じられた神の御声が、イエスの受洗において開かれたのである。
 400年にわたる時を経て、神の声と言葉による歴史への介入。しかも決定的な介入がなされ、その決定的な瞬間に我々は立ち会う。マタイもマルコも、ヨハネを「洗礼者」と呼び、「預言者」とは呼ばない。バプテスマのヨハネは旧約時代の預言と新約時代の神の言葉を繋ぐところのいわゆる「舞台回し」の役を担う存在である。9節以降がまさにその瞬間を我々に伝える。10節の「天が裂けて」は原文では「数ある天が裂かれて」である。これまで神の声が届くことを阻んできた数々の天の諸層(ウーラヌース=諸霊の棲)を切り裂いて、神のみ声が到来する。「あなたはわたしの最愛の息子、わたしはあなたによって喜ぶ」これがイエスの生涯を支え、その使命(十字架)へと導くのである。

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2021年1月24日 降誕節第5主日

説教:「試練の後に」
聖書朗読:マルコによる福音書1章12〜15節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「権威ある者として」

 マルコのこの単元の構造は明確である。@23〜26節の出来事を、A21,22節とB27,28節が挟んでいる。AとBの内容は「驚いた」と「権威ある(新しい)教え」の登場という点で共通している。そして@はその実証である。イエスの権威がこれで証明される。
 ではこの「権威ある教え」なかんずく「権威」とは何か。人間の社会には様々な局面に於いて、権威が存在し存続する。教会も一つの権威の体系であると言える。役員の場合、個人的な権威と云うわけでは無いが、役員会には教会法上の権威がある。牧師(教師)の権威とは聖礼典の執行と説教である。「准允」において説教免許が付与され、按手によって聖礼典の執行が許されるのである。
 ではイエスの持つ権威とは何か。それはその「教え」に関する権威であるが、「律法学者のようにではなく」教えたとマルコとは語る。これはどういうことか。律法学者の権威の源泉は「律法」の権威にある。その律法の解釈と適用が彼らの仕事であった。律法学者の「学」とは「解釈学」の謂いである。
 ところがイエスにあっては、主イエスご自身が神の言葉であった。律法学者の権威は「第一次的権威」としての律法に淵源する「二次的権威」に過ぎなかったかが、イエスに於いては彼自身が権威そのものであられたのである。解釈ではなく御言葉そのものの権威、それが現れたのである。
 新約の教会においてはこれが一体となって現れる。説教者は御言葉の解釈者に過ぎないが、その解き明かしの業のなかで、御言葉の命そのものが顕在化するのである。そしてその命が、「汚れた霊」を追放し下さるのである。

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2021年1月31日 降誕節第6主日

説教:「イエスとは誰か」
聖書朗読:マルコによる福音書9章2〜10節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「真理の缶詰」

 最近「空気の缶詰」なるものをお土産品として見ることが多くなってきた。「富士山頂の空気」とか「大山の空気」とか、結構種類は多いようである。昭和40年代には「大東京の汚れた空気」というのも有った。
 今日の聖書箇所のテーマは「栄光を缶詰に出来るか」である。「白」は神の栄光を現すものであり、ペトロは自らが見たその栄光を「仮小屋」に留め置き、保存したいと思ったのである。
 それに対して「雲」の中から声があって曰く「これはわたしの愛する子、これに聞け」。「雲」は神の現存を現す象徴であり、その声は神の声である。神がペトロ達にお求めになったのはイエスに聞き続けて歩むことであり、その栄光を缶詰にして保存することではなかった。
 神の言葉に聞き続けて歩むこと、これが我々の信仰のすべてであり、一切である。真理もこれと同じで、我々は神の真理と出会い続けて歩むのである。人間は真理を我が手にしたいと思うが、固定化し、保存し、所有できるものは知識であって真理ではない。真理とは神の真実を意味するのであって、われわれはその神の真実と出会いつつ、その日々を生きるのである。
 その神の真実との出会い方を9節が語っている。三人がみた栄光は、主イエスの十字架の死と復活を通してのみ理解できる事柄であるから、その時までこれを公にしてはならないというのである。これはとても大切なことであり、イエスとは誰か、その到来の意味は何か。それは十字架を通してのみ明らかとなる。われわれはその十字架も死と復活を通して、神の声に聞き続け、その真実と出会い続けて、その人生を歩むのである。

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