日本基督教団 洛北教会

2021年 教会標語「あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」(申命記31章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

21年2月のバックナンバーです。

2021年2月7日 降誕節第7主日

説教:「愛すること、与えること」
聖書朗読:ルカによる福音書6章31〜38節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「創発の人生」

 「創発」、聞き慣れない言葉である。要するに今あるものを超える生き方と言えば良いであろう。ここで「今ある生き方」と言えば、32節以降、自分を愛してくれる人を愛し、自分によくしてくれる人に良くし、返して貰うことを当てにして貸す生き方のことである。そしてキリストは言う。そんなことをしたって、それが一体何なのかと。そんな生き方は何も生み出さず、何を超えることもない生き方であると。
 これに対してイエスが示すのが、敵を愛し、自分を憎む者に親切にし、悪口を言う者に親切を贈り、侮辱する者のために祈り、頬を打つ者にはもう一方の頬を向け、上着を奪い取る者には下着をも与え、持ち物を奪う者から取り返そうとするなと言う有りようである。正直に言うが、これを例え部分的にであれ実行している牧師には、自分も含めお目にかかったことはない。みんな悪口には悪口を返し、打たれれば打ち返している(と、思う)。それゆえキリスト者は偽善的であると云われるのであるが、この箇所(27節から読む)が言っているのはそんなことではない。
 ポイントは36節にある。即ち父の憐れみ深さを覚えて生きよと云うことである。裁かぬ事、罪に定めぬ事、赦すこと、与えること、これらすべては父があなたにして下さったことであり、あなたが自分の人生の出発点にあって常に覚えるべき事だと聖書はいうのである。そこから他者との関係を形成するあなたの歩みが始まる。そしてそれだけが創発の人生である。
 そしてその原点となるために、主イエスが、主イエスだけが、27〜30節までの言葉を生きて下さった。私たちに対してである。私たちの罪を超えて、私たちを生かすために。これが神の憐れみの本質である。私たちはそこに根ざしてこそ生きるのである。

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2021年2月14日 降誕節第8主日

説教:「仕える心」
聖書朗読:マタイによる福音書23章1〜12節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「有言実行」

 四文字熟語に「不言実行」とうのがあります。語る前にやれといった意味でしょうか。今日の箇所に出てくるのはその正反対、言うけれどもやらない、更には人にそれをやらせる。まさに有言不実行、最も唾棄すべき人間の見本、イエスはそれを律法学者やファリサイ人の中に見ています。
 彼らの特徴はすべて行為が「人に見せるため」と言うところにあります。「人に見せるため」とは、その眼差しが神ではなく人に向かっている状態を表す言葉です。神に真実に向かう者だけが人にも向かう者となる。しかしその目が人にしか向かっていないため、本当の意味で人に向かうことが出来なくなる。本当の意味でとは、徹頭徹尾、神を経由してという意味です。
 経箱を大きくしたり、衣の房を長くしたり、本当にご苦労なことです。しかしこの時点で、彼らの目は人にしか向いていません。つまり、その本質において神を見失っているのです。それはつまり「己を神として」いるということです。
 2節の「モーセの座」とは、シナゴーグ(会堂)に備えられた権威者の席のことであり、律法学者の職務継承の象徴であります。その席から語られる言葉はこれすべてモーセの言葉として聞かなければなりませんでした。イエスはそれ自体は否定しません。そこから語られるのは紛れもない神の言葉=律法だからです。問題はそれを語るものが神を見失い、自らの言葉を実行出来ない事です。イエスは此処で、その語る者の内実を回復しようとします。如何にしてか。それは「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」という事に於いてです。それを現実のものとするため、主イエスご自身がその言葉を生きて下さいました。「有言実行」の生涯でした。

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2021年2月21日 受難節第1主日

説教:「空の手で従う」
聖書朗読:マタイによる福音書20章17〜28節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「右大臣・左大臣」

 今日のテキストでは、エルサレムに向かうイエスが12弟子だけを集めて第三回目の受難予告を行うところからその記述が始まる。強調点の一つは、その受難予告の直後に「ゼベダイの息子たちの母」が自分の息子たちの地位(右大臣・左大臣)の確保をイエスに願い出る、その無理解かつ不躾さであるとされてきた。
 しかしそれは少し違うのではないかと思う。ゼベダイの息子とはヤコブとヨハネであるから、彼らはイエスによる受難予告を聞いている。その上で、母と共にイエスの元を訪れているのである。そして母は言う。「王座にお着きになるとき」と。つまりこの母は、受難の先に王座に就くイエスを見ていることになる。これはナービー(先見者)的発言であると言ってよい。
   「他の十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」と記されている。要するにこの二人の「抜け駆け」に腹を立てたのである。ということは、他の十人も全く同じ心を抱いていたことになる。お掃除当番なんていやだと思っているところに、二人の者がそれを願い出てくれた。感謝こそすれ、誰がそれに腹を立てるであろうか。
結局のところ、イエスとはだれか、その働きとは何か、その何れもが理解されていない。イエスと同じ杯を飲む者だけが、イエスの右と左に座ることができる。それで、結局イエスの右と左には一体誰が座ったか。マタイ福音書によれば、それは名もなき「二人の強盗」(マタイ27章38節)であった。
 つまり12人全員がイエスの盃(苦難の盃=十字架の死)を飲むことが出来なかったのである。しかし彼らはその挫折=死から救われていく。復活のイエスがそれを成し遂げて下さる。復活の主イエスとの関係の中に甦らせて下さるのである。

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2021年2月28日 受難節第2主日

説教:「大きな淵を超える」
聖書朗読:ルカによる福音書16章19〜31節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「淵を造るのは自分」

 「陰府」に落ちて、その地獄の苦しみからの救いを求める金持ちに対して、アブラハムは言う。「私たちとお前たちの間には大きな淵が設けられ、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこから私たちの方に越えて来ることもできない」と。金持ちは地獄の災で焼かれながら苦しみ続けなければならない。日本でもよく見る地獄絵図の通りの世界である。
 この淵を掘ったのは神でもなければアブラハムでもない。この渡ることのできない淵を掘ったのは、この金持ち自身である。門前に横たわるラザロを蔑み、無視してその傍らを通り過ぎるその度ごとに、その淵は深くなっていく。その淵とは自分が神様のとの間に掘った淵なのである。そしてその淵はあまりにも深すぎて、また広すぎて、最早自力でそれ超えることは出来ない。
 この淵を消す方法が一つだけある。それは「モーセと預言者に聴く」ことである。御言葉に聴くことによって、この大きな淵が消え去って行くのである。アブラハムは人間が神に対して造る「大きな壁」に気づいている。それは神の言葉に耳をふさぐ壁である。この壁を作り上げている限り、死者の復活という出来事も力を発揮することはできない。まさにこの淵と壁の相乗効果である。
 しかしパウロが「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)と語るように、神の言葉に心を開くとき、この淵も壁も消え去って行くのである。覚えておきたい。淵を掘るのも、壁を造るのも自分自身であると。神はそのような私たちのために、その独り子を遣わし、十字架の死と復活を通して、私たち一人一人に迫っていて下さるのである。

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