日本基督教団 洛北教会

2021年 教会標語「あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」(申命記31章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

21年3月のバックナンバーです。

2021年3月7日 受難節第3主日

説教:「頑なさの故に」
聖書朗読:マタイによる福音書21章33〜43節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「ホワイトかブラックか」

 最近、会社には「白」と「黒」とがあるらしい。白は言うまでもなく社員を生かし、愛し、育ててくれる会社である。黒は社員を食い潰し、搾取し、最後に切り捨てて行く集団のことである。自分の会社の構成員を食い潰そう、搾取しようと考えている時点で、彼らはもうアウトである。
 今日出てくるぶどう園の主はどうであろうか。彼は@ぶどう園を造り(即ち土地を耕し、ブドウの苗木を植え)、A垣を巡らし、B搾り場を掘り、C見張りの櫓を建てたのである。つまりぶどう園経営に必用なすべてのことをやった上で、これを「農夫たち」に「貸し出して」旅に出た。
 これは明らかに「恩恵の場」としての働きの場である。「収穫の時」に農夫たちは、その働きにふさわしい「取り分」を頂き、主人もまた先の@〜Cまでを整えたことにふさわしい取り分を貰う。これほど公平かつ喜びに充ちた場があるであろうか。しかも、主人の働き(@〜Cの)によって、多くの労働者に働きの場が与えられたのである。これは資本家による労働者搾取ではない。主人による恵みの創造である。ところが農夫たちは、その恵みの場を奪取の場に変えてしまった。他人の物を不当に奪い取る強奪の場としてしまったのである。
 33節はイザヤ書5章を、また42節は詩篇118編を、それぞれ背景としている。是非お目通し頂きたい。イザヤ書5章は、細心の注意を払って民のためにぶどう園を整えた神が、民に裏切られる様を歌った「愛の歌」であり、後者は「捨てられた者」こそが隅の親石となる事を歌ったもので、息子は死を経て、やがて教会の頭となる存在であることを示している。その神の恩恵を失うことなく歩む群れでありたいと思う。

 ←クリックすると礼拝の録音が聞けます。
 ←クリックすると礼拝の録画を視聴できます。

 

2021年3月14日 受難節第4主日

説教:「しるしと信仰」
聖書朗読:ヨハネによる福音書2章13〜25節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「何に己を委ねるか」

 私たちは常に己を委ねつつ生きる存在である。電車やバスに己を委ねて、我々は教会にやってくる。教会では牧師に説教の務めを委ねて、その言葉に聞き入るのである。これは己の耳を委ねていると言っても良い事柄である。とすれば、己を委ねた相手が真実かどうか、誠実かどうか、正しいかどうか、更に云えば愛に満ち、恵みに満ちた存在であるか否か、そこにすべてが掛かっていると言って良い。
 今日与えられたテキストでは、大暴れして、父の家である神殿を商売の場としていた者たちを追い出されたイエスに、ユダヤ人たちが問う(ヨハネ福音書に於いて「ユダヤ人たち」とは、「イエスに逆らう勢力」=「世」に属する者の総称である)。「こんな事をするからにはどんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と。
 ヨハネ福音書に拠れば、その後エルサレムに滞在中のイエスが行った数々のしるしを見て、多くの人々がイエスの名を信じたという。此処には一つの問題点がある、それは彼らが「見て、信じた」ということである。見て信じる、見たから信じるというのは本当に信じると言うことなのだろうか。それは「信じる」ことではなく、単に「認識」したことに過ぎないのではないか。
 では信じると何か、これを22節が語る。即ち「弟子たちは…聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」と。言葉を信じるとは相手の人格を信じると云うことである。即ちその相手の真実を信じると云うことである。「弟子たち」は主イエスの真実に己を委ねた。しかし「ユダヤ人たち」は「しるし」見て、「信じた」という。しかしそれは信仰ではなく、自己を主体とする「承認」である。信仰とは主イエスの言葉に聞き続けて生きることである。 神に己を委ねて生きる人生、それこそが主イエスの人生であった。 ハレルヤ!

 ←クリックすると礼拝の録音が聞けます。
 ←クリックすると礼拝の録画を視聴できます。

 

2021年3月21日 受難節第5主日

説教:「神、我らとともに」
聖書朗読:マタイによる福音書1章18〜24節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「正しい人ヨセフ」

 ルカ福音書におけるイエス誕生の物語はマリアを中心に展開するが、マタイではヨセフが中心となる。このヨセフは、自分のいいなずけが、自分との関係の外で身ごもったことに心を痛め、「密かに」マリアを離縁しようと考える。何故「密かに」かというと、これを公にしたらマリアが姦通の罪で石打の刑になってしまうからである。
 マタイはヨセフを「正しい人」であったと言うが、この「正しさ」とは何か。それは一つには律法を守ることであり、今一つは人を守ることである。この二つの正しさの間でヨセフは苦しんだ。そして出した結論が、マリアを密かに離縁することであったのだ。これならば律法も守り、マリアの命も守ることが出来る。恐らくヨセフにとってこれが取り得るただ一つの道であると思われたであろう。
 しかし思いがけないことが起こる。それは律法も、すべての正しさも、その根源である神からの言葉の到来である。その主旨は「恐れずにマリアを妻として迎え入れる」べきこと、そして生まれてくる子を「イエスと名付ける」ことの二点であった。そしてその子は「自分の民を罪から救う者となる」ともいわれた。要するに神はここで励ましと祝福を与えているのである。
  ヨセフはここで第三の選択を行う。それは「神の御声に聴き従う」という選択である。ここにヨセフの正しさが完成する。何となれば、ヨセフが神の御声に聴き従ったことで、神の救いが地上にもたらされたからである。神が人に求める「正しさ」とは、神が起こす出来事への忠実さなのである。ヨセフの「正しさ」によって、私たちも主イエスをインマヌエルと呼ぶことが出来るのである。ヨセフに告げられた言葉は、この朝、私たちにも告げられている。「恐れるな、私を受けとめよ」と。

 ←クリックすると礼拝の録音が聞けます。
 ←クリックすると礼拝の録画を視聴できます。

 

2021年3月28日 受難節第6主日(棕櫚の主日)

説教:「共感」
聖書朗読:マタイによる福音書18章21〜35節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「キリストの顔は何度まで?」

 <仏の顔も三度まで>というのがある。元の言葉は「仏の顔も三度撫ずれば腹立つ」というもので、三回までは赦されると云うことでは無く、三回目には叱られるという意味である。
 これに比べるとペテロの問いは「七回まで」というのであるから、こちらの方が明らかに度量が深いように見える。しかもこの「七」というのは聖書における一種の完全数であるから、ペテロとしては先ずこの完全数を提示し、人として考え得る限りの完全さを提示しようとしているとも読める。しかしこれに対するイエスの答えは「七の七十倍まで」というものであった。
 これは一体どういうことであるか。ペトロの誤解は赦しに限度・限界を設けようとしたことにある。いやそれは判る。しかもこの後、牧師であるあなたが書くこの説教黙想がどのように展開されていくかも想像がつく。でも、しかしである。やはり限界はあるのではないか。これを書いているあなただって、限度を超える仕打ちには耐えられないでしょう?、と云われるか。まさにその通り。私だって耐えられない。というか、私は他の誰よりも耐えられない。
 しかし、この話の筋はそこにはない。なぜなら此処で語られているのは、人が人に対して為す「許し」ではなく、神が人になす「赦し」についての言葉だからである。ペトロがここで用いる<アフェーソー>という言葉は「赦し」ではなく「許し」というべき言葉であるが、イエスはこの言葉を用いない。そして唯、「七の七十回」と云うのである。完全数の七十倍、即ち「無限」にと云うこと。これが「赦し」である。それは神だけがなし得ることで、その赦しの中に「汝、立ち帰って生きよ」と神は言われるのである。

 ←クリックすると礼拝の録音が聞けます。
 ←クリックすると礼拝の録画を視聴できます。