先週の説教 -バックナンバー-
21年4月のバックナンバーです。
21年4月のバックナンバーです。
説教:「復活の朝に」
聖書朗読:マルコによる福音書16章1〜7節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「押し出す恵み」
今日の福音書に登場する三人の婦人達はこれに先立つ15章にも登場し、そこでは十字架に架けられたイエスを「遠くから見守り」(15:40)、更には「イエスの遺体を納めた場所を見つめて」(15:47)いる。この「見守り」も「見つめる」も原語では同じ動詞<セオーレオー>であり、「観察する、見て知る」を意味する言葉である。
そしてこの婦人達は、安息日が明けると直ちにイエスを納めた墓に直行する。その目的はイエスの最後の場所とその姿を見届けるためである。ここで、この婦人達の<セオーレーン> が完成(あるいは完結)するのである。そこで、彼女たちのイエスの物語も完結する。かつて主と共に歩んだあの幸せな日々が、今主の亡骸(なきがら)と共に自分たちの世界の中に「安置」されるのである。
ところが神はそれをお許しにはならなかった。一体神はここで何をこの女性達に許さなかったのか。それは主イエスの生涯とその存在を自らの世界の中に取り込むことをである。
イエスの最後を、或いは最期のイエスを、肉の目は見届けることは出来ない。唯霊の眼だけがそれを見ることが出来る。ここに復活の主を信じる者と信じない者との決定的な差が生まれる。
信じる者は何を信じるか。此処に語られている通り「あなた方より先にガリラヤに行き、そこで待っておられる」その主を信じるのである。自分の肉の目(自分の世界、自分の理解)の中に収まる神ではなく、常に自らを超え、この自分に先立って歩んで下さる、その神の導きを信じて歩むのである。
十字架はこのように、主イエスとの新しい関係を開き、未来に向けて私たちを押し出すものであり、その恵みなのである。
説教:「新 生」
聖書朗読:ヨハネによる福音書3章1〜8節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「あなたは何度生まれるか」
説教者として長年その務めに就いていると、誰しも自分の独自ネタとでも言うべきものを持つようになるのではないかと思う。この場合の独自ネタとは、誰かの注解書や説教集で読んだことではなく、自らが必死になって聖書を読み込んでいる時に、まさに天啓の如くに閃いた(インスパイアされた)理解であり、正真正銘、腑に落ちた理解のことである。
例えば私の場合には、「人間は全員が信仰者である」というバージョンや「人は何度生まれるか」バージョンなどがそれである。人は何度生まれるか。「そんなもん、一回に決まっとるやろ!」というその常識を覆すアプローチングである。
曰く、あなたという存在がこの世に生まれたのは精子と卵子が結合して受精卵となったその時ではないのか。出産直前にはあなたという存在はほぼ完成して母の胎の中に在る。なのに何故「出産の日」があなたの「誕生日」なのか。このレトリックを思いついたときには我ながらシビレました。
あとは結婚の時、そして我が子の出産の時、これらはそれぞれに妻と夫の誕生日であり、父と母が誕生する日である。園長を務めていた幼稚園のお誕生会で「あなたが誕生した日、それはあなたのお父さんとお母さんが誕生した日でもあるのですよ」とよく語りかけたが、これには保護者の「本当にそうですね」という反響が多かった。
ここで私が語っている「誕生」とは何か、その本質は何か、それは「関係性の決定的な変化」ということである。母の胎から押し出され、臍の緒を切られたその瞬間、母との関係が決定的に変化するのである。では人の誕生の最後のものは何か。それは神の子として誕生するその瞬間である。バプテスマの時がその時である。イエスはここでその事を言っている。神との関係に新たに生まれること。それが神の国への誕生の時なのだと。
説教:「光の子ら」
聖書朗読:ヨハネによる福音書3章14〜21節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「イエスに至る光の道」
本日は本来墓前礼拝を行うべき日であるが、このコロナ禍の中で今年度も実施は見送りとなった。そこでこの主日礼拝の中で教会墓地への埋葬者を覚えて御言葉を聞き祈りを合わせたいと思う。
先週の説教でも触れたことであるが、ヨハネ福音書の神学の特徴は「終末が既に来ている」と捉えることにある。いつ来たか、「主イエスの到来と共に」である。なので「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」(18節)と語るのである。終末こそが裁きの時なのである。
ではそこで、誰が裁き、誰が裁かれるのか。勿論裁くのは裁判官としての神であり、裁かれるのは被告としての人間であろう。しかしそれは半分正解で半分不正解である。なんとなれば19節に「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」とあるからである。厳密に言えば神が裁き給う前に、人が自らを裁きに定めているのである。よってこの裁きは100%自己責任である。
なるほど、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁く為ではなく、御子によって世が救われる為である」と語られる通りである。「裁き=断罪=滅び」ではなく、「真理を行う」ことによって「御子による救い」を得る者がある。しかしこれはある種、誤解を招く言い方であるとも言える。「先ず真理を為す者があり、その者は光の方にやってくる」と読むならば、光に来ることも、それによって救いを得ることも、すべては真理を行うその人の業が根拠となるからである。即ち救いの根拠は真理を行う人の業にある事になる。しかしここが語っているのはそういう事ではない。その真意は「光に来ること、それが即ち真理である」という簡潔自明の事柄である。光が来たので闇に住む民にも御子に至る道が照らし出された。その道を辿りイエスに至ること。それが光の子達の真理なのである。
説教:「宣べ伝えるべきこと」
聖書朗読:マルコによる福音書16章15〜20節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「宣教する側、される側」
今日の聖書箇所は15節と20節で対比を造っている。15節「全世界に行って…宣べ伝えなさい」vs 20節「出かけて行って至るところで宣教した」。更に17節「しるしが伴う」vs 20節「伴うしるし」というぐあいである。このようなサンドイッチ構造のことを「キアズモ」というのであるが、この場合、その真ん中に最重要な事が来る。この箇所に於いては19節における「イエスの昇天」がそれである。
普通に考えれば、「宣教」には「する側とされる側」があり、云うまでも無く弟子達は宣教する側なのである。しかし15節には「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」とある。この「すべての造られたもの」とは何か、またこの「すべて」の中には弟子達は入っていないのであろうか。
全世界に行って福音を宣べ伝える主体は、実は19節にある「昇天のイエス」本人なのであって。弟子達が宣教の主体であり、かつ完成者なのではない。それは20節に「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」とあることからもわかる。
そこに実は14節の意味がある。此処で弟子達はその「不信仰とかたくなな心」を復活のイエスから責められている。その弟子達がイエスによって宣教に送り出されるのである。
これが何を意味するかは明らかである。宣教の主体は何処までも復活のイエスであり、昇天のキリストなのである。天に上げられ、神の右に着座されたイエスご自身が、その場所から宣教の業を推し進めていかれる。そして弟子達もまた、その宣教の対象なのである。
不信仰とかたくなさを脱しきれない私たちが、御復活の主によって福音宣教の旅に送り出されるのである。そして新しい言葉とそれに共なるしるしが与えられ続けるのである。