日本基督教団 洛北教会

2021年 教会標語「あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」(申命記31章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

21年5月のバックナンバーです。

2021年5月2日 復活後第4主日

説教:「イエスの回帰」
聖書朗読:ヨハネによる福音書6章16〜21節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「足下の子犬ですら」

 我が家にはメイプルという名のミニュチュアダックスフンドが居る。西宮教会に赴任した2005年にコーナン(大型量販店)にカーテンを買いに行き、売り場の横にあったペットコーナーでたまたま見た子犬を長女が抱っこさせて貰ったところ、犬がしがみついて離れなくなり、そのまま連れて帰ることになったのである。その子犬は毎晩毎晩、妻の布団に潜り込んで寝るようになり、今日に至るまでその状態が続いている。
 妻が抗がん剤治療のために入院するようになり、妻不在の間、このメイプルは完全に光を失った虚ろな目でうなだれて過ごしている。妻が退院して帰ってくると、その喜び様は尋常ではない。妻こそが、自分の存在の根拠であることを身体感覚で知っているのである。
 今日の箇所では16節と17節に同じ動詞の組み合わせが繰り返される。「夕方になった・・・行こうとした」と「暗くなっていた・・・来ておられなかった」の二つである。 要するにこれは<イエスの不在>を強調する表現であるといえる。更に19節の「25〜30スタディオン」とは<湖の真ん中>を現す表現であり、強い風が吹いて荒れ始めた湖の真ん中で立ち往生する船の様子を現しているといって良い。
 その立ち往生する船に、主イエスが湖の上を歩いて近づかれる。弟子達が恐れたのも無理はない。そしてイエスが語り掛ける。「わたしだ、恐れることはない」と。これは「わたしである」という意味の「エゴー・エイミ」という言葉であり、出エジプト記における神の名乗り「わたしは在る。在るという者だ」のギリシャ語的表現であると言って良い。
 「わたしは在る。あなたたちに対して在り続ける」。こう言って下さる主イエスの回帰(不在の解消)によって、弟子達の不安は消し去られ、船は直ちに目的地に到着する。問題の根源は「イエス抜きで出発したこと」にある。彼らはそれを心底知ることになるのである。

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2021年5月9日 復活後第5主日

説教:「求めること、信じること」
聖書朗読:ヨハネによる福音書6章22〜29節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「探すこと・信じること」

  ヨハネ福音書6章は、1〜15節で五千人のパンの奇跡を語り、22節以降でその意味を群衆との対話を通して明らかにしていく。しかし対話が進むにつれて、イエスと群衆の間の溝が露呈し、ついには抜き差しならぬ対立へと進んでしまう。
 群衆たちの最初の姿が24節に描かれる。「イエスを探し求めてカファルナウムに来た」とあるのがそれである。「探し求める」、これが彼らの態度であり、また動機でもあった。また25節以降71節まで、イエスの対話の相手が変化していく。40節までの対話の相手は「群衆」であるが、41〜59節になると「ユダヤ人」と言い換えられ、最後の60〜70節では「弟子たち」となっている。
 特に最初の段落では対話は、イエスと群衆の「尻取り」の形で進行している。24「探し求める」26「探している」27「働く」28「行う(働く)」28「神の業」29「神の業」29「信じる」30「信じる」31「パン」32「パン」33「パン」33「与える」34「(与えて)下さい」34「パン」35「パン」といった具合である。
 これは一体何かというと、相手の発言の終結部を自分の発言の冒頭部に置くことで、本来は相互理解が深まっていくはずのものが、逆に群衆の無理解が暴露される結果となっているのである。何という恐ろしいレトリックであろうか。その要因はただ一つ、同じ言葉を使っていても、その意味が異なっているからである。
 群衆がイエスを「探し求めた」のは「満腹したから」であって、彼らはその「しるし」の意味を見たからではない。イエスは永遠の命に至らせる食べ物のために働けと言うが、その働きとは「正しい行い」ではなく、主イエスを「信じること」そのことであった。わたしの行いではなく、主の真実を信じること。これがただ一つの私たちの業なのである。

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2021年5月16日 昇天後主日

説教:「天からのパン」
聖書朗読:ヨハネによる福音書6章30〜35節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「方向が逆」

 今日のテキストで群衆が言う。「それでは、私たちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行って下さいますか。どのようなことをして下さいますか」と。群衆達は先ず、「信じる」ということがどういうことであるか、全く判っていません。
 群衆たちは「わたしたちの先祖は荒野でマンナを食べました」と言い、あなたは何をしてくれるのかと言うのです。この問いに対してイエスはお答えになります。「モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」と。
 「信じる」とは、先週共に学んだように、「神の中へと信じる」ことです。35節「わたしが命のパンである。…わたしを信じる者はけっして渇くことがない」。後半部分の直訳は「わたしの中へと信じる者はいつまでも決して渇くことはない」です。
 群衆達は「しるし」とはイエスが行う何らかのイベントであると考えています。それは天からのマンナであったり、水が葡萄酒に変わる奇跡であったり、死んだ者が蘇生する力ある業であったりするのでありましょう。
 しかしヨハネ福音書は語ります。「しるし」とは、いまあなた方の目の前に居るイエス・キリストそのものであると。35節「わたしが命のパンである」とは、そういう意味です。様々な奇跡によってイエスを信じるのではない。イエス・キリストそのものが奇跡なのだと。
 やがてこの天からのパン、命のパンはその体を十字架の上に裂いて、血の杯と共に私たちに分け与えられるようになります。その主キリストの命に与り続ける限り、あなた方は飢えることも渇くこともないのであると主は言われます。その主イエスの中に自らを投げ入れて生きること。それが「信じる」ということの意味であります。

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2021年5月23日 聖霊降臨日

説教:「父を見る」
聖書朗読:ヨハネによる福音書14章6〜14節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「助け主(弁護者)到来!」

 今日の箇所はイエスによる「告別説教」の冒頭部分である。テーマは「別れ」もしくは「別離」である。自分の愛する者、自分を導いてくれる者との別れは、当然のことながら不安を生じさせる。それが14章冒頭の「心を騒がせるな」という言葉に象徴されている。
 続いて、「神を信じなさい、わたしをも信じなさい」と言われる。ここは直訳すれば「神の中へと信じ、またわたしの中へと信じなさい」である。このわたしが自分の判断で神を信じ、イエスを信じるのではない。自己存在のすべてを、神の中に置き、主イエスの中に置くのである。
  そこがトマスには今一つ判らない。だから「主よ、何処へ行かれるのか判りません。どうしてその道を知ることが出来るでしょうか」と問うのである。ここでトマスが悟るべき事、それは主イエスご自身が「道」であり「真理」であり「命」であると云うことである。
 フィリポに於いても事情は同じである。「主よ、わたしたちに御父をお示し下さい。そうすれば満足できます」との言葉に対して主は言われる。「わたしを見た者は父を見たのである」と。ここにあるのはイエスを伝達者・仲介者としか見ずに、本質そのものであると見ることの出来ない弟子達の限界である。
 しかしそれも実は無理からぬ事なのである。それが結局はヨハネ福音書だけでなく、旧新約を通して、聖書全体が私たちに告げる事柄なのである。この弟子達を初め、わたしたちが本当に主イエスの中に信じる(己自身を置く)事が出来るのは、なんと言っても主キリストの十字架と出会い、また御復活の主との出会いを経験し、更には「助け主」が与えられる事によって実現する恵みだからである(26〜27節)。今日(ペンテコステ)、それが実現する。

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2021年5月30日 三位一体主日

説教:「永遠の命」
聖書朗読:ヨハネによる福音書6章44〜51節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「神の命に生きる」

 今日のテキストの背景には旧約時代の出来事がある。出エジプト記15章22節以降がそれである。出エジプトの旅路の冒頭で飲み水に恵まれなかったとき、人々がモーセに向かって「不平を言った」事が語られるのであるが、原語では「ヴァ・イローヌ」といい、その原意は「つぶやく」である。次の16章でもこの言葉は何度も登場する。その真ん中に「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる」(16:4)というモーセの言葉が置かれるのである。
 今日のテキストでも、その直前の41節で「つぶやき始め」、主イエスが「つぶやき合うのは止めなさい」(43節)と言われる。旧約でも新約でも「つぶやく」ことの内実は「在る人物に対する期待が裏切られて不満を口にする」ということである。それ故に「ユダヤ人」達は「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている」と言って、イエスを自分たちの理解とその世界の中に収斂させようとするのである。(ちなみにそれまで「群衆」と呼んでいたものが、41節から突然「ユダヤ人」に変わるが、これはその人々が俄然、イエスに敵対する群れに変容したことを現すための呼称変換である。)
 44,45節「わたしのもとへ来る」は現在形、「復活させる」と「神によって教えられる」は未来形である。イエスのもとに行くという現在を持てば、救いという未来がもたらされるのである。しかしイエスの元に行くためには、神に教えられ、今与えられている「しるし」に目が開かれなければならない。ではそれはどのようにして可能なのであろうか。その方法はただ一つ。神の次元(天からのパン)を人の次元に引きずり下ろすのではなく、自らを神の次元に明け渡すことである。神の言葉を聞き、打ち砕かれた魂として主の中に自らを投げ込むとき、神の命がこのわたしに披かれるのである。

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