日本基督教団 洛北教会

2021年 教会標語「あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」(申命記31章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

21年6月のバックナンバーです。

2021年6月6日 三位一体後第1主日

説教:「まことの食べ物」
聖書朗読:ヨハネによる福音書6章52〜59節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「壮絶なる食事」

 今日の箇所には、何度も食べるという意味の「τρωγων(トロゥゴゥン)」という言葉が出て来る。この言葉はどちらかというと肉食動物が獲物を捕らえた際に、ムシャムシャと肉を引きちぎるようにして喰い散らかすという主旨の言葉であって、決して上品な言葉ではない。そしてここでは、そのようにして食べるべきものが主イエスの肉と血だと言うのである。更には先週までは「天からのパン」「命のパン」と言われていたものがここでは「肉」と「血」に言い換えられている。それは一体何故か。
 ユダヤ人にとって「肉と血」を一緒に食すことなど全く考えられないことであった。血にはその者の命が宿っており、その命は神に属するものなので、動物を屠った際には、その血は地に流さねばならず、それを人が飲むことは赦されざる罪であった。だからユダヤ人は今でも「血」を飲むことはおろか、随伴的に血を食べることもしない。いわゆる「血のしたたるステーキ」などは論外であり、ホテルのレストランですら肉類は完全に血抜きしたものを用いるのである。
 この背景が判って、初めてこの箇所の意味がわかる。すなわちこれは律法の規定を蹂躙する食事なのである。それ故に弟子達は「全くひどい話だ。だれがこんな話しを聞いていられようか。」と言ったのである。そしてイエスは言う。あなたたちは私の命を喰い尽くし、私の命を飲み尽くせと。そうで無ければあなたたちの内に命はないと。律法の規定を乗り越えて、神の命を喰らい、その命を飲み尽くすのであると。
 イエスの血は動物の血ではない。それは神の血潮であり、神の命そのものなのである。それを十字架の上に主は流して下さった。私たちがそれを飲んで永遠の命にいたるためである。私たちの命は、その犠牲の上にこそ保たれている。

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2021年6月13日 三位一体後第2主日

説教:「主と共に歩む」
聖書朗読:ヨハネによる福音書6章60〜69節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「肉から霊へ」

 私たちの人生にも、相手と仲良くしたいのに、自分の思いを正直に語れば語る程、相手との距離が開いてしまうことがある。そして、後悔する。此処でのイエスは、後悔したかどうかは判らないが、否、後悔はなかったと思われるが、イエス自身の発言によって「群衆」、「ユダヤ人」達との距離は益々遠ざかっていく。
 その理由は以下の通りである。イエスは先ず、自らを「天から降ってきたパン」に例える。ここでユダヤ人達は「パン」ではなく「天から降ってきた」という表現に躓く。ここには「ズレ」という典型的なコミュニケーション障害がある。次にイエスは己の「肉と血を喰らえ」と云うのであるが、これこそはユダヤ人達が最も忌避する律法上の罪であり、また汚れを負う行為であった。
 ここまで距離を拡げ、対立を醸成したところに、イエスは最後の火種を投げ込む。それが「霊」という概念である。「概念」と言ったが、それは単なる概念ではなく、イエスにおける神の実態そのものであった。その霊が働くのでなければ「誰も私の元に来ることは出来ない」と主は言われる。そして言う、「肉は何の役にも立たない」と。此処での「肉」は「サルクス」であって「ソーマ」ではない。すなわちこの文脈にあっては「肉の思い」ということであるから、主はその弟子達の「肉の思い」、即ち自分の努力と働きによって、イエスにちかづき、神にちかづきたいという思いを完全に拒否されたのである。それが十二人を除くすべての弟子達の退去(離反)を招くのである。イエスは最後に十二人に問い、ペトロの応答を得る。しかしペトロの理解は未だ完全ではない。だから挫折し、失敗もする。まさに肉は何の役にも立たないのである。しかしヨハネはいう。その十二人をイエスは「極限まで愛し抜かれた」(13:1)と。こうして彼らは主の愛に生きる者とされていく。

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2021年6月20日 三位一体後第3主日

説教:「指導と信従」
聖書朗読:ヨハネによる福音書10章1〜17節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「求めているから聞き分ける」

 来週の18節を含めて、この箇所は次の四つの段落に別けることが出来ます。
 @「羊の門」のたとえ(1〜3a節)。A「羊飼い」のたとえ(3b〜5節)。B「わたしは羊の門である」(7〜10節)。C「私は良い羊飼いである」(11〜18節)の四つです。
 @の「羊の門」の譬えでは、羊の囲いの中に入ろうとする者には門から入る者と囲いを乗り越えて来る者の二種類があり、前者が正当な羊飼いであり羊の守り手、導き手であるが、後者は盗人であり、強盗であることが指摘される。そして、B7〜10節がこの譬えの意味を解説している。イエスは先ず「わたしは羊の門である」と述べ、イエスこそが羊にとっての「門」となると宣言します。イエスより前に来た者たちはみな強盗や盗人であり、門以外の場所を乗り越えてきた者たちである。イエスだけが「門」を通ってやって来た真実の羊飼いであり、彼によって羊たちはまことの命へと導かれます。イエスだけが神を啓示することの出来る真の人だからです。
 次に3b〜5のたとえですが、次のような構造をしています。
  a 「羊たち」は羊飼いの声を聞き分ける。
b 「羊飼い」は羊を連れ出す。
b´「羊飼い」は羊の先頭に立つ。
  a´「羊たち」はついて行き、他の者からは逃げ出す。
 この箇所は一目して判るように、「羊たち」と「羊飼い」との親密な関係を語る箇所ですが、ここで大切なのはaの「羊たちは羊飼いの声を聞き分ける」と語られている箇所です。声を聞き分けうるのは、その羊飼いの声に真実と愛とがこもっているからです。そして羊たちがそれこそを求めているからに他なりません。私たちはどうでしょうか。

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2021年6月27日 三位一体後第4主日

説教:「命を捨てて命を守る」
聖書朗読:ヨハネによる福音書10章11〜18節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「人のために命を捨てる愛、それをイエスは<愛の権威>と呼ぶ」

 今日のテキストには以下のように「繰り返し」が多い。
11節:わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
14節:わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。<15節:それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。>わたしは羊のために命を捨てる。17節:わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。18節:だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。
 14節までは「良い羊飼い」、17節以降は「父」、その中心に15節があり、更には「命を捨てる」が三つの段落に均等に配分される。さらに14、15節には「知る」が四度繰り返される。この「知る(γινωσκω・ギノースコー)」は単に「理解する・認識する」ということでは無く「深く関わる」ことを表す言葉である。また14節は原文では「わたしはわたしのものたちを知っており、わたしのものたちはわたしを知っている」であり、両者が二重の意味で一つ(一体)であることを語っている。その一体性をもたらすものが父と子の愛における一体性なのである。つまり「知る」と「愛」とは一つなのである。
 17、18節の日本語訳は特に判り辛い。此処に語られていることは要するに父と子の愛における命の一致ということである。最後にある「父から受けた掟」とは、自らの命を「捨てる」(原語は「差し出す」「置く」)を自らの意思で行い、これによって民に対する父の愛を満たせという「命令」のことである。父の意思を己の思いとして生きること、その「愛における権威」が自分にはあると主は言われる。

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