先週の説教 -バックナンバー-
21年7月のバックナンバーです。
21年7月のバックナンバーです。
説教:「愛の三段論法」
聖書朗読:ヨハネによる福音書10章22〜30節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「自分が先か、イエスが先か」
22節は「時期」、23節は「場所」を特定するための記述で、全くないわけではないが、余り大きな意味はない。むしろ重要なのは24節以降である。イエスを取り囲んでいるユダヤ人は「気をもんで」いるし、明らかに苛立っている。彼らはイエスが一体何者であるのか知りたいのである。
これに対してイエスは言う。@私は言ったがあなたたちは信じない。Aわたしが父の名によって行う業が、わたしについて証ししている。Bしかしあなたたちはわたしの羊ではないので信じない。Cわたしの羊はわたしの声を聞き分ける(25〜27節)。
此処でのポイントは明らかにCにある。つまりあなたたちが信じない(信じられない)のは、あなたがたがわたしの声を聞き分けることが出来ないからだというのである。此処で聞きわけるとは単にAとBを聞き分けると云うことでは無く、その語られた内容を正しく聞き、理解するという意味である。彼らがイエスの声を正しく聞き、理解することが出来ないのは何故か。答えははっきりしていて、彼らの耳が他の声を聞いているからである。つまり神ではない者の声を神の声として聞いて生きているからである。それがイエスの時代にも、大半の者の姿であり現実であった。
今一つのことは27節の後半に「わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」とあることの意味である。実はこの一句はなくても文脈理解に支障を生じない。むしろ飛ばして読む方が28節にスムーズに繋がると言っても良いかも知れない。ではこの一句の意味は何か。イエスの羊は何ゆえイエスの声を聞き分け、イエスを信じることが出来たか。それは羊たちがイエスを先に信じたからではない。彼らは「イエスがこのわたしを知っている」という事実と出会って、イエスに己を委ね、その御声Aに信頼して従うのである。
説教:「世を救う者」
聖書朗読:ヨハネによる福音書12章44〜50節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「叫ぶイエス」
「イエスは叫んでこう言われた」。この言葉で44節以下の言葉が始まる。イエスが叫んだのは、その言葉をできる限り多くの人に届かせるためであって、決して一時的なヒステリー状態に陥ったからではない。
彼が叫んだことの第一は、遣わしたものと遣わされた者が一つであって、その両者に乖離が無いと言うことである。人として生きると言うことは乖離を経験する言うことである。父と子に、妻と夫に、兄弟に、また友と友に、我々は乖離を経験しないという事はない。
その乖離を主が繋いでくださる。そして一つにして下さる。一体何が、主の言葉がである。だからこの主イエスの言葉こそが、私たちを永遠の命に繋ぐ唯一の希望なのである。
イエスは言葉を語る。その言葉は愛であり真実であり誠実である。このすべてを一言で「ピスティス」と言う。そしてこの言葉が聖書では「信仰」と訳される。信仰とは即ち主キリストの愛と誠実を真実を語る言葉であった。よってこれを拒否することは、とりもなおさず己が命の根底を捨て去ることを意味するのである。
人は何によって裁かれるか。イエスは「わたしは裁かない」といわれる。しかし彼の言葉を「拒み」、「受け入れない」者は、そのこと自体によって既に裁かれている。主が「終わりの日に」と言われるのは、その日に事柄の本質が明らかになるからである。
私たちもこの朝、心底銘記しておきたいことがある。それはこの主イエスの御言葉にどう向き合い、それをどのように聞き、如何に受け入れるか。或いはそれを退け、拒否してしまうか。その態度一つによって、このわたしの内実が定まり、その生死が決まると言うことである。「終わりの日」に私たちの主イエスに対する従順、と信頼が明らかになるよう、まさに主の御言葉と真実による導きを乞い願う者でありたい。
説教:「受容の連鎖」
聖書朗読:ヨハネによる福音書13章16〜20節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「仕えの連鎖」
今日の箇所でイエスが語っているのは「神への仕え方」である。16節でイエスは「僕は主人に優らず、遣わされた者は遣わした者に優りはしない」というが、それは、「よく覚えておけ、おまえ達はこのわたしに遣わされた者であるから、何があろうと主人であるこのわたしが常におまえ達に優越するのだ」と言わんが為ではない。
17節には「このことが判り、そのとおりに実行するなら」とあるが、「このこと」とは一体何であろうか。そのすぐ後に「そのとおりに実行するなら」とあるので、これが「実行の手本」である事がわかるが、だとすれば、これは13章1節から始まる「洗足」の出来事を指していると言って良い。その最後は15節の「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」で、17節と無理なく繋がる。
だとすれば、神→イエス→弟子という派遣の連鎖の中で、弟子達に上に立つイエスが弟子達の下に立つ(僕となる)ことこそ、おまえ達の手本なのだと言っていることになる。
そしてイエスは言う。神に仕えるとは下の者に仕えることなのだと。そしてこれが、21 世紀を生きるプロテスタント教会の根本原理なのである(おっと「原理」という言葉を使いましたが、いわゆる「統一原理」
とは一切、何の関係もありませんので念のため)。
教会員の皆様が、牧師のことを「先生」と呼んで下さいますが、この「先生」の教会員との関わり方は「支配すること」でも「統治すること」でもなく、徹頭徹尾「仕えること」にある。牧師は教会と教会員とに仕えることを通して主に仕え、神に仕えるのであって、これ以外に神に仕える道はない。牧師に十分に仕えられている執事会は十分に教会員に仕えることが出来、その教会員達はまた、十分に子ども達に仕えることが出来る。20 節を私たちはその意味で受け止めたく願う。
説教:「愛を見た日」
聖書朗読:ヨハネによる福音書14章7〜14節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「知る、見る、信じる」
今日の箇所はフィリポとの対話が弟子達との会話の締めくくりとなっており、そこではイエスを「知ること」、「見ること」、「信じること」の順でイエスとの関係が語られる。
私たちは主イエスを本当の意味で知ることは出来ない。更に見ることも出来ない。聖書において「知る」とはその本質を「体験する」ことであり、これはイエスが生まれるまでヨセフはマリアを「知ること」はなかったと語られている通りである。また「見る」とは、「その本質に目が開かれる」ということであり、これも肉なる人間には元来不可能なことなのである。そして最後に「信じる」が残る。
「信じる」とは、イエスの言葉に信頼すると云うことである。言葉とはその人の人格そのものということであり、いわばそれに懸けるという性格を持つ。実は私たちはその全ての者が信仰者、すなわち何かを信じて生きる者であり、信じること無しには片時も生きることの出来ない者たちなのである。例えば教会に来るのに電車やバスを利用するとき、私たちはその行き先表示を「信じて」それに乗る。また出された食事には毒は入っていないと「信じて」それを口にするし、哲学的側面においても、例えば無神論者は「神はいないと信じている者」なのであるから、
彼もまた確実に「信仰者=信じる者」なのである。
しかし信じてはならないものを信じてその身に破滅を引き寄せる人はたくさんいるし、詐欺こそ人類最古の犯罪であるとすれば、信ずべきものと信じてはならぬものの峻別こそが我々の人生最後の課題であると言うことになる。実はフィリポはその事をこそ問うているのである。そのフィリポにイエスは「父のもとへ行く」自分を示す。それは十字架の死を通して父の栄光を表すご自身の姿である。木に架けられた、呪われた死によって表される栄光、そこに弟子達は「真に信ずべきもの」をやがて見いだしていく。