日本基督教団 洛北教会

2021年 教会標語「あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」(申命記31章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

21年8月のバックナンバーです。

2021年8月1日 三位一体後第9主日

説教:「つながっていなければ」
聖書朗読:ヨハネによる福音書15章1〜8節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「断ち切ること、繋がること」

 イエスは弟子達に「自分と繋がって生きる事」を執拗に、或いは必死になって求める。
 これは驚くべき事である。なぜなら私たち人間にとって、他者と「繋がって生きること」、そして「繋がり続けること」は、当初は喜ばしいこと(例えば大学で誰かと初めて知り合い「友達になる」ことや、「意中の人」と出会って夫婦となること)であっても、これを生涯に亘って維持・継続することは中々に難しい事なのではあるまいか。
 「人間は本質的に人見知りである」と言った人があるが、それは実は私なのであるが、これは実感である。「聖書は好き、イエス様は好きだが、教会は御免被りたい」という人がある(これは私の言葉ではないので念のため)。私ではないが気持ちはわかる。教会というものの人間関係が時に鬱陶しく感じられることがあるのである。
 私がアメリカにいた頃、ハーバードのメディカルスクールでChurch depression という言葉と出会ったことがある。アメリカの精神科医の中では極めてポピュラーな病名であって、敢えて日本語に直せば「教会うつ病」となる。教会での人間関係が原因で鬱状態になる現象のことで、これに対する唯一の処方は「教会を休め」という事であった。
 今日の箇所でイエスは「繋がる」という言葉を6回も繰り返している。必死になって自分との繋がりを持ち続けよと言うのである。主イエスは私たちと繋がり続けることが鬱陶しくはなかったのだろうか。それどころではない。実はこの繋がりを断ち切らない為に、彼は十字架に架かられるのである。福音書記者ヨハネはそこに何を見ているか。信じる者が「実を結ぶ」ために、己が血潮を養分として与え続ける「ブドウの木」としてのイエスであり、それを植えられた父なる神の「繋がり続ける愛」であり、それは即ち「断ち切る」ことの対極にある「慈しみ」なのである。

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2021年8月8日 三位一体後第10主日

説教:「違う生き方」
聖書朗読:ヨハネによる福音書14章21〜26節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「最後に愛は勝つ」

 矢内原忠雄は先の戦争の末期、東京自由が丘の自宅に少数の若者達を招いて、ダンテ、ミルトン、アウグスティヌスなどの西洋古典を講義する場を設けた。いわゆる「土曜学校」である。時に1939年、その2年前に、彼は東京帝大をその自由主義的言動の故に追放されている。彼の講演や論文、更には「通信」や「嘉信」などの個人刊行物は常に特高警察の検閲の対象とされ、これらとの苛烈な闘いを送りつつ、その日々を過ごしていたのである。今日の22節「主よ、私たちにはご自分を現そうとされるのに、世にはそうなさらないのは何故でしょうか」という弟子の言葉を読む度に、わたしはこの矢内原の態度を思い出す。世はもう完全に自分に敵対している。これが世の変わることのない基本姿勢である。だとすれば、世の妨害を受けないところで、自分を信じ、自分もまた信じる者たちに、神の言葉、真理の言葉をしっかりと与えておきたい。イエスがそう考えたとしても、そこに何の無理もないと思われる。
 この世の悪、策略、謀略、闇、悪意、憎悪、怒り、嫉妬、貪欲、名誉、そして自己神化、この闇の勢力の渦巻く社会を我々は生きている。人生の一歩一歩、右も左も、これらの勢力が掘りまくる落とし穴だらけである。その中を私たちは日々歩むのである(コワ!!)。今日の聖書は、その中を歩み抜く唯一の方法を我々に教える。23節のヴァリアント(variantの方)「イエスを愛する者はイエスの言葉を守る。イエスの父はその人を愛され、父とイエスはその人のところに行き、一緒に住む」とあるのがそれである。更に26節に拠れば、父がイエスの名によってお遣わし下さる聖霊が、この私の「弁護者」として、私たちにすべてのことを教えて下さるというのである。世にこれほど心強い立場はあるであろうか。
戦後、矢内原は東大から三顧の礼を以て迎えられ、総長となる。「信仰の勝利」である。

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2021年8月15日 三位一体後第11主日

説教:「世が知るべき事」
聖書朗読:ヨハネによる福音書14章27〜31a節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「主の平和」

 今のカトリック教会のミサは第二バチカン公会議以降の「ローマ典礼」と呼ばれる典礼文に拠って執り行われるが、その中に「平和の挨拶」という箇所がある。そこではミサに参加した人々が、互いに「主の平和」と言って、前後左右の人と挨拶するのであるが、ラテン語の「ミサル(ミサ典書)」の「ルブリック(指示書)」によると、「互いに抱擁し相手の頬に接吻する」旨、認められている。外国(特に西欧圏)では、これで何の問題もないのであるが日本ではチョット、ということになり互いの「会釈」で済ませることになった。
此処でイエスが与える「平和」とは「神の祝福が満ち充ちた力強さとしての平和」であり、単に「争いがない状態」というような「消極的平和」ではない。
 聖書が語るこの「平和」の背景にはヘブライ語の「シャーローム」がある。この言葉の意味と幅を理解するのにサムエル記下11章7節が興味深い。そこには「ウリヤが来るとダビデはヨアブの安否、兵士の安否を聞いた。また戦況について尋ねた」とある。このうち二つの「安否」並びに「戦況」が、何れも「シャーローム」なのである。最後は「闘いのシャーローム」であって、この三つ共が「状態の完全性」を指している。
イエスは神の愛を余すところなく啓示した方であり、イエスと共に世に浸透した神の支配は最早誰もこれを押しとどめることは出来ない。30節の意味はそういうことである。31節も興味深い。これによると「世」は神を否定しているのでなく、イエスと父なる神との一体性をこそ否定しているのである。何故そうするか、それは主イエスによって、父なる神のご意思が明らかとなり、それによって自分達のサタン性もまた明らかになるからである。その全てを担い抜くためにイエスは十字架への歩みを進める。31節「さあ立て、ここから出かけよう。」この十字架を通して「神の命の完全性(充満)」としての平和が与えられる。

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2021年8月22日 三位一体後第12主日

説教:「愛の記憶」
聖書朗読:ヨハネによる福音書15章9〜11節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「目標は愛のプレローマ」

 今日の箇所は、段階を踏んで一つのことが語られる。「一つのこと」とは、11節に語られる「喜びの充満」ということである。ここで「充満」と訳されているのはあの有名な「プレローマ」であって、ギリシャ思想や哲学、またグノーシス主義の思想においても中心的な概念を為す言葉である。曰く、知識の充満、真理の充満、光の充満等々。そこでの「充満」とは「張り裂けんばかりの」という意味であって、一種量的存在論的概念の一つであると云ってよい。
 しかしここでのプレローマは徹頭徹尾関係概念としてのそれであって、イエスに留まり、それを通して父なる神に留まる事によって自分たちの中に流れ入る喜びとその充満を語る言葉である。
 ここには二つのキーワードがある。ひとつは「とどまる」と訳された「メノー(μενω [私が]留まっている 動詞・現在・能動・叙実・一人称・単数)」という言葉であり、この言葉はこれまで「つながる」「いつもある」などとも訳されてきたが、これは元来、@存続する、生き続ける。Aそのものの元来の姿に留まる。B留まる、滞在する、といった意味を持つ言葉である。今一つは「掟」と訳されたエントラス(εντολαζ 名詞・対格・複数・女性)であり、直訳すれば「諸々の命令を」となる。
 前者は関係の内実を語る言葉であり、後者はその手段となる「命令(=ことば)」への従順を語っている。そして、主イエスを愛する事と、その諸々の言葉に聞き続ける事は、完全に一つのことなのである。とすれば、目標である「喜びのプレローマ」が実現するか否かは、主イエスとの人格的結合関係の有無によるのである。その言葉に聞き続けること、そこにこそ「われわれ」の喜びの源泉があり、その充満の根拠がある。

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2021年8月29日 三位一体後第13主日

説教:「友と呼ぶ愛」
聖書朗読:ヨハネによる福音書15章12〜17節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「神の友」

 今日の聖書箇所で、イエスは弟子達のことを「友」と呼んでいる。神(神の子)が人を友と呼ぶのである。このようなことは前代未聞のことなのであろうか。確かにヨハネ福音書以外、それはほとんど他に例を見ない事柄である。唯一の例外はルカ福音書12章4節であり、そこでは主イエスが「友人であるあなた方に言っておく」と弟子達に呼びかけている。
 では旧約聖書ではどうか。これが実はいろんな形で存在するのである。イザヤ書41章8節には「わたしの愛する友アブラハムの末よ」とあり、知恵の書7章27節には「知恵は…神の友と預言者とを育成する」と言われる。実は後期ユダヤ教においては、アブラハムだけでなく、モーセや預言者ならびにその他敬虔な人々も「神の友」と呼ばれるようになったのであるが、キリスト教はそれをほとんど受け継がなかった。
 ではヨハネ福音書がこの「神の友」概念を受け継いでいるのは一種の「先祖返り」なのであろうか。ヨハネ福音書が成立したのは紀元100年頃であるが、このころに隆盛を誇ったグノーシス主義が、この「友」という表現を好み、敬虔な人をさして「神の友」と呼んだのである。ヨハネはこの言葉を用いつつ、グノーシス的「智慧」ではなく、聖書的「愛」の具現に対してこの言葉を用いたのである。
 人が友と呼ばれるのは人にその資格があるからではない。そこには最も小さく、最もみすぼらしい者を、その小ささ故に愛して下さる神の慈しみがある。16節「あなたが私を選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と有る通りである。旧約聖書において最も有名なのは申命記7章の6,7節の言葉であろう。しかしこれと共に重要なのはエゼキエル書16章5節であり、これは良きサマリア人のたとえに通じるものである。

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