日本基督教団 洛北教会

2021年 教会標語「あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」(申命記31章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

21年9月のバックナンバーです。

2021年9月5日 三位一体後第14主日 振起日

説教:「神に属するもの」
聖書朗読:ヨハネによる福音書15章18〜21節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「その先にあるもの」

 先週は愛の原点と言うことを聞いた。更にこれが齎すゴールについても語られた。今日はその正反対、「憎しみ」が語られる。その原点は「世」である。此処で「世」とは、神を忘れた世界、神を排除した世界のことで、己を神として生きる「自己神化」、「自己正当化」の世界のことである。そして「世」は自分たちの世界に来ないものを「憎む」のである。
 実はこの自分たちのところに「来ない者」こそが、自分たちを根底から救ってくれる者なのであるが、「世」にはそれが判らない。そしてこれを「憎み」かつ「排除」する。自らの救いを、自ら遠ざけ、排除するのである。今の政治の世界を見ているとその事が良く判る。世の価値観にのみ染まって生きていると、政治家もあそこまで劣化するのである。
 ある東大教授がyoutube番組で次のようなことを言っていた。「新型コロナのお陰で長い間待ち望まれつつ、遂に実現することのなかったネットによる会議がほぼ一瞬にして実現した。この点で一番遅れていたのは大学でありなかんずく東大である。特に年輩教授達がネットで会議なんか出来るわけないやろ!と叫んでいたが、その理由はネット会議ではいじめやパワハラがしにくくなるからです。全身からあのイヤ〜な雰囲気を醸し出して相手を圧迫することができない。それに全部録画される」というのである。実態は知らないが、私はこの教授が好きで個人的にも信頼しているので多分そうなんだろう、と思う。
 世はイエスの言葉を守らず、むしろイエスを迫害した。だからあなた方の言葉も聞かず、あなたがたを迫害する。だからそれは決して意外なことではないというのである。誰も自分たちの言葉を聞いてくれないこと、むしろ迫害されること、これは本来意外なことなのである。その意外性はどこから来るか。すべては「世」がイエスを遣わした方、即ち「父なる神」を忘れた(知らない)事による。その先には「神を殺した者の死」が待っている。

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2021年9月12日 三位一体後第15主日

説教:「躓くことなく」
聖書朗読:ヨハネによる福音書15章26〜16章4節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「裁きの逆転」

 今日のテキストは前にも述べた「告別説教」第二部・第二段落(「世はイエスとその弟子を憎む」15章18節〜16章4a節)の結びとなる部分です。それ故に「これらのことを話したのは」というまとめの言葉が二回にわたって提示されます。
 16章1節では「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである」といわれ、会堂からの追放や殺害の事実が語られます。これらのことはヨハネ福音書の共同体が実際に体験していた事柄です。そしてその最後に、このようなことが起こるのは、彼らが「父も私をも知らないから」だと言われます。
 16章4節では「これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったと言うことをあなたがたに思い出させるためである。」と言われます。
 つまり、前者ではその原因を語り、後者ではその目的を語ります。神もキリストも知らない者が完全に的外れな行為に走り、キリストの弟子達はその目標を「思い出す」と言うのです。この「思い出す」は原語では「μνημονευητε ムネィモニューエィテ[あなたたちが]記憶を思い出し得る、動詞・現在・能動・仮定・二人称・複数」であり、いわゆる「事実の再起」を現す言葉であります。
 ここにいわゆる「聖霊」が「弁護者」と表現される理由があります。この当時、ヨハネの共同体は文字通り、この世(ユダヤ+ローマ)の法廷に、まさに「被告」として立たされていたのです。これこそ愚の骨頂です。人間が神の言葉を裁こうとするのです。しかしここで真に裁かれているのは、云うまでも無く「この世」です。その事が主の死と復活によって明らかとなります。人間の罪と破れの現実が明らかとなり、キリストの真実が明らかとなるのです。そこの私達の救いがあり、希望があるのです。

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2021年9月19日 三位一体後第16主日

説教:「聖霊の到来」
聖書朗読:ヨハネによる福音書16章5〜11節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「十字架・復活・昇天・聖霊の派遣が意味すること」

 「告別説教」の第二部は「ぶどうの木のたとえ」で始まる。ぶどうの木に枝が「つながっている」ように、真のぶどうの木であるイエスに「つながっている」ようにと求める(15章1〜17節)。しかし、イエスが御父の言葉を語っていることを理解できない「世」は、イエスに「つながる」弟子たちを迫害する(15章18節〜16章4a節)。イエスが父の元に帰ることを聞いた弟子達は悲嘆に暮れる。その弟子達にイエスが「弁護者」の到来を語るのである。
 ここで「弁護者」は「パラクレートス」即ち前置詞パラ<脇に、傍らに>と動詞カレオー<呼び寄せる>による合成動詞パラカレオーから派生した名詞で、文字通りには「誰かを助けるために呼び出された者」の意味で、口語訳ではこれを「助け主」と訳している。
 更にイエスは言う、「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ない」と。このことの意味は一体何であろうか。ここで「去っていく」とは十字架の死及び復活を経ての昇天を指している。これまでも度々述べてきたように、「十字架の死」とは父なる神との「関係の断絶」を意味し、復活とはその「関係の回復」を意味する。そしてこの回復された関係の担い手こそが「聖霊」なのである。聖霊とは父と子の間に通い合う「愛の息吹」そのものの事である。
 さてこの「関係の断絶」こそが私たちの罪の実態(本質)であり、またその結果であった。その罪の実態とその結果を、主は十字架の上に担って下さったのである。そして回復された主ご自身と父なる神との関係に立って、主は私たちに父なる神との関係の回復をもたらして下さったのである。 それを成し遂げて下さるのが、この「聖霊=弁護者=助け主=真理の霊」なのである。だから、この順番が必用なのである。

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2021年9月26日 三位一体後第17主日 召天者記念礼拝

説教:「真理の霊」
聖書朗読:ヨハネによる福音書16章12〜15節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「真理とは何か」

 表題に掲げた言葉は、聖書の世界なかんずくヨハネ福音書の世界では、主イエスの地上の歩みの最後に記されたローマ総督ピラトの問いである。しかしこの問いは古来すべての人が問うてきた問いでもあろう。
 端的に言って真理(しんり、希: αληθεια、羅: veritas、英: truth)とは、確実な根拠によって本当であると認められたこと、ありのまま誤りなく認識されたことのあり方の事であるが、ヨハネ福音書では真理の霊と呼ばれ、それはむしろ真理=真実(なかんずく神の真実)を明らかにする霊、即ち聖霊のことである。そして聖霊が証する真理とは、ヨハネが語る、はじめに言があったこと、すべてのことはこの言によって出来たこと、この言は神であったこと、そしてこの言が世に来て私たちの間に宿られたことを指すのである。
 繰り返し言うが真理の霊とは真理そのものではなく、真理について証しする霊なのである。だから「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである」(16章13節)と語るのである。
 更に真理とは主イエス・キリストそのものの事なのであるから、真理の霊とは要するにイエス・キリストについて証しする霊なのである。だとすると…今日のこの話はどこにたどり着くのであろうか。書いている本人が一番心配しながら書いてきたのであるが、今、ようやく光が見えた…だとすると、私たちは被造物であって聖霊ではないが、その聖なる霊に悟りを得させられ、その霊と同じ働きに主キリストを証しすることによって与っているのである。一体それは何という光栄なことであろうか。14節は「彼はわたしの栄光を現す」が正解。そして私たちもその栄光が与えられる(反射させられる)のである。

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