先週の説教 -バックナンバー-
21年10月のバックナンバーです。
21年10月のバックナンバーです。
説教:「神の確かさ」
聖書朗読:ヨハネによる福音書16章16〜20節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「福音の対応マニュアル」
人に何かを頼んだとき、「しばらくお待ちください」といわれると、若干不安になる。その暫くとは、一体どのくらいの長さなのか。5分か、10分か、或いは2〜3日なのか。ひょっとしたら2年待ち、3年待ちなのかも知れない。それに対して「はい、ただいま」とか「すぐに」といわれると嬉しくなる。
ではここでイエスが言う「しばらく」とは、どのくらいのことなのだろうか。ここには「しばらく」という言葉が7回も出てくるが、その真意は如何なるものであったろうか。イエスに「しばらくすると」といわれ、「またしばらくすると」と言われた弟子達の心境はどのようなものであったか。
ここは原文では<ミークロス(小さい・少ない)>と書かれており、これは明らかに「ただちに」とか「すぐに」と訳すべき言葉である。つまりイエスはこの言葉を弟子達の不安を払拭するために語っているのである。「すぐにあなたがたはわたしを見なくなるが、またすぐにわたしを見ることになる」ということ、即ち見失ってから再発見まではあっというまだと言われるのである。だから心配するなと。見失った悲しみは直ちに再び見いだした喜びに変わる。そしてそれがあなたがたに最後に来るものであると。
結局のところ、ここでの「ミークロス」は時間の長短をいうものではなく、神の介入の確かさをこそ語るのである。安心せよ、それはすぐに来ると。
詩126編5,6節は次のように歌う「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」と。この言葉が、主イエスの十字架を通って、最終的に実現し、完成するのである。
説教:「喜びを生む悲しみ」
聖書朗読:ヨハネによる福音書16章21節〜23a節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「神に仕える道」
「はっきり言っておく。あなた方は泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。」と20節は言う。何故「世」は喜ぶのか。それは「神を冒涜する者(ナザレのイエス)」が死んだからである。では問う。イエスは如何なる意味において「神を冒涜する者」のであったのか。それは「乗り超えて行く者」という事においてであった。ではイエスは何を乗り超えたのか。一つには「律法」であり、更には律法における「義」の概念、この二つをイエスは乗り超えていったのであった。
まず「律法」とは、外側から人間の行為を縛るものであり、「義」とは人間の側から己の正しさを完成する行為であった。この両者の一致こそがヨハネ福音書における「世」即ち「広義には神に逆らうこの世界の総体、狭義にはユダヤ教の本質」であると言うのである。
その両者を、主イエスは軽々と乗り超えて行かれた。一体何においてか、他者に対する愛においてである。グッド・サマリタンの譬え、放蕩息子の譬え、姦淫の女、安息日の癒やし等々、すべてはこの一点に収斂するのである。これを許容できる「世=ユダヤ教世界」は存在しない。その典型例、また筆頭が使徒パウロである。彼はまさにこれらの事例において主イエスを「神を冒涜する者、神に逆らう者」と認識し、「その道の者」達を探索・捕縛し、「殺害の息をはずませつつ」処罰の場へと連行したのであった。
このパウロに復活のイエスが出会うのであるが、そこでパウロは自らが求めていたものが結局は「己の義」であり、それは究極的には「己を神とすること」であったことに気づくのである。
十字架の主イエス、そして復活者イエスに出会った者だけが、それを理解することが出来る。その時に、まことの喜びが到来するのである。
説教:「共に願い共に祈る」
聖書朗読:ヨハネによる福音書16章23b〜28節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「なぜ祈りは聞かれるか」
この朝の問いは<なぜ祈りは聞かれるか>であって、<なぜ祈りは聞かれないか>ではない。わたしたちが「主の御名によって」願うことは、父がそれを「お与えになる」とイエスは言われた。そしてそれは本当である。
「わたしの名によって」を直訳すると「わたしの名の中で」となる。つまり「わたし」が己の願いを「主イエスの名によって」、つまり主の御名を「借りて」願うのではなく、このわたしがまさに「主イエスの願いを自分の願いとして願う者となる」ということである。自分の祈り願いが主イエスの祈り願いと完全に一致する。そんなことはあるのだろうか。「ある」と今日の聖書はいう。そしてそれこそが「その日」(26節)に与えられる新しい賜物なのである。「その日」とは弟子達が復活のイエスと出会う日であり(22節)、イエスが「はっきり父について知らせる時」でもある(25節)。
「その日には … わたしがあなたがたのために父に願ってあげるとは言わない」(26節)とは、イエスが御父と弟子達の仲立ちをする必要がないのであり、その時には弟子達は御父の思いを完全に知る者になっているとの謂である。イエスと御父の思いとその愛に出会う(中へと導かれ、その中で祈る)なら、その者の祈りは、必ずや父なる神によって聞き届けられる祈りなのである。
祈りとは何か、それは「我々の人生そのもの」の事である。私たちは祈りの中で生まれ、祈りの中で成長し、祈り祈られてその人生を歩むのである。その人生の最中にあって、御復活の主と出会う幸いを与えられた者は、自らの人生を主の御名の中で生きる祈りと為すことが出来る。このわたしの人生そのものが祈りであった。主の御名の中に生きる祈りであった。その祈りを(私の人生そのものを)主は受け止め聞き届けて下さるのである。
説教:「根底からの支え」
聖書朗読:ヨハネによる福音書16章29〜33節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「世に対する勝利、これからではありません、既にです」
まず30節ですが、この部分の解釈は混乱しています。混乱の理由の一つは、「必要としない」という動詞の主語がほとんどの邦訳であいまいだからです。邦訳はほとんどみな「誰もお尋ねする必要がない」と訳していますが、これは「必要とする」の主語を「誰か」(三人称単数)として読んでいることになり、文法的に成り立ちません。「必要としない」という動詞は二人称単数形であって、主語は「あなた」です。英訳はみな「あなたは(誰かがaskすることを)必要とされない」と正しく理解しています。日本語訳では、文語訳の「人の汝に問うを待ち給はぬこと」だけがこの意味に理解しています。
「あなたは人が頼むのを必要とされない」というのは、人から頼まれてはじめて何かを行う方ではなく、人が頼む前にすべてを知って事をなされる方である、という意味に理解することができます。この文は、直前の「あなたはすべてのことを知っておられる」と並行しており、「すべてのことを知っておられる」ことを別の表現で語ったものです。
このように文意を理解して読むと、「今あなたは明らかにお話しになり、もはや謎を語られません」という弟子の言葉は、イエスがこの訣別遺訓で「その日」に起こることを予告しておられる事態を指していると見ることができます。「その日」に起こることは、弟子たちが頼んだので起こるのではなく、すべてを知っておられるイエスが、これから起こることをすべて知っておられ、これからしようとすることを「明らかに」予告されたのだと、弟子たちは気づきます。イエスがこのような方であると分かって、弟子たちは「あなたが神から来られたことを信じます」と告白するに至ります。復活者イエスはすでに死と闇の領域である世に打ち勝っておられるのですから、復活者イエスの内にとどまる者は、復活者イエスと共に「世に打ち勝つ」ことができるのです。この確信が勇気の根拠となります。
説教:「仲保者キリスト」
聖書朗読:ヨハネによる福音書17章1〜11節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「真実の命」
イエスはこれまで、苦しみを受けて天に帰る出来事を「わたしの時」と呼んでこられました。その時が来たので、この時に「子の栄光を現してください」と、イエスは父に祈り求められます。「栄光を現す」とは、この福音書では神的な本質を現すことであり、啓示の出来事を指しています。
二節を直訳すると「肉なるものすべてを支配する権能を子に与えてくださったので、あなたが子に与えてくださったすべての者たちに、子は永遠の命を与えるようになるのです。」となるが「肉なるものすべて」とは、すべての人間を指す旧約聖書的表現です。これは、復活されたイエスが天地の万物を支配する権能を与えられたことを指しています。
次に三節は「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」と語りますが、この「知る」は旧約聖書に見られる用法の人格的な交わりを指しています。「唯一のまことの神」との人格的な交わりに生きることが人間にとって真実の命であることは、聖書の世界では当然のことです。しかし、この福音書では、神を知ることは、神から遣わされたイエスを知ること以外のところにはないのですから、「唯一のまことの神であるあなた」という句と一息に、「と、あなたが遣わされたイエス・キリスト」を知ることです、と語ることになります。ここの「と」《カイ》は、二人の方を知ることではなく、「すなわち」の意であり、「唯一のまことの神であるあなたを知ること、すなわち、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることが永遠の命です」という宣言です。
ヨハネ共同体はここで、この復活者イエス・キリストと結ばれて生きることこそ永遠の命であることを体験し、告白するのです。