日本基督教団 洛北教会

2021年 教会標語「あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」(申命記31章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

21年11月のバックナンバーです。
<お詫び>11月14日の録画に、機器の不調による一部動画・音声の不具合があります。

2021年11月7日 週末前々主日

説教:「一つとなるため」
聖書朗読:ヨハネによる福音書17章20〜26節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「知ること、信じること」

 「大祭司の祈り」の第三段落(20〜26節)では、直弟子の宣教活動によってイエスを信じることになった人々のために、イエスは「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」と祈ります。
 この段落の特徴は、第一段落には使われていたけれども、第二段落では姿を消していた「知る」と「信じる」が再び現れる事である。しかしここで重要なことは、その主語が変化していると言うことである。第一段落で「知り、信じた」のは家のイエスの業と言葉に触れた直弟子達であったが、第三段落では「彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」というように「世」が主語になっている。
 つまり、文脈の流れはこういう事である。
@イエスの直弟子達もかつては世に属していたが、「今は」イエスが誰であるかを知って、世に属さない者となった(第一段落)。
A彼らは世に残されて、イエスの使命を受け継ぐ者となる(第二段落)。
B最後に「世」は直弟子と同じ道を辿り、「知って、信じて」世から離れる事になる。
 結局神は、自分に背く者の代名詞としてとしての「世」を、それでも愛しており、これを捨てることが出来ない。世ではなく、ご自分の独り子を十字架の上に捨てて、神は世を贖うのである。「わたしの心は、わたしの中で向きを変える」(エレミヤ書31章20節・但し私訳)と言われている通りである。

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2021年11月14日 終末前主日

説教:「内外に触れる愛」
聖書朗読:ヨハネによる福音書21章15〜19節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「降下するイエス」

 イエス・キリストの降誕からキリスト教は始まった。そして再来週には我々は待降節の第一主日を迎える。しかし今日はその話ではない。今日のテーマは復活のイエスの降下と言うことである。
 え、チョット待って下さい。イエスは十字架の死を経て陰府に降り(ここがまさにドン底)、その後起こされ(陰府から引き上げられ)、更には「天(父なる神の右)」にまで引き上げられるのではなかったか。
 いえいえそうではありません。復活のイエスの本質こそ、この降下(へりくだり・謙遜)にあるのです。その証拠が今日のテキストにおけるイエスとペトロの三度の対話である。
 ここでイエスは三度ペトロに「この人たち以上に私を愛するか」と問い、ペトロはそれに「わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです」と答えている。しかしここには最初から一つの食い違いがある。イエスの「愛しているか」はギリシャ語では「アガパオー」であるが、これに対してペトロは「フィレオー」と答えている。それぞれの名詞形は「アガペー」と「フィリア」である。前者は「無償の愛、神の愛」を指し、後者は「友情、友愛」を指す言葉である。
 アガペー⇔フィリア、アガペー⇔フィリアと来て、三度目にはイエス自身がフィリアを用いることになるのである。つまりここでイエス自身が「神の愛」から「人間的な愛」へと「降下」しているのである。ペトロはイエスを「アガパオー」出来ない。彼が出来るのは「フィレオー」であって、それが彼の限界なのである。その限界にイエスは降下して寄り添って下さるのである。この復活の主イエスの寄り添いに拠って、私たちは今この地上の生を生きているのである。やがてその限界を突破していくために。

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2021年11月21日 終末主日

説教:「我に従え」
聖書朗読:ヨハネによる福音書21章20〜25節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「愛弟子問題」

 ヨハネ福音書には「愛弟子問題」というのがある。20節で「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついてくるのが見えた」とあるのがその人物である。さらにこの箇所は「この弟子はあの夕食の時、イエスの胸元に寄りかかったまま、主よ、裏切るのは誰ですかと言った人である」と続く。
 イタリア・ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の(更に厳密に言えば付属修道院の)食堂の壁に描かれたレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』にもこの場面が描かれているが、そこでは中央にイエスが座り、その向かって左隣にこの愛弟子が、更にその左にペトロが座っている。向かって左は要するにイエスの右であるから、そこが席としては「一番」の処なのである。
 つまりこういう事である。先週の箇所でペトロはイエスの筆頭弟子として教会の牧者に任命されている。しかしそのペトロよりも、この愛弟子の方がイエスに近かったとヨハネ福音書は語るのである。ミケランジェロはそのことを実に正確に受け止めて、自己の作品の中に反映させているのである。  ペトロはこの人物が気になってしょうがない。だから「ついてこい」とイエスに言われたにも拘わらず、ペトロは先頭を行くイエスではなく、「振り向いて」この弟子を見てしまうのである。この弟子の名は「ヨハネ」。そして彼こそが、このヨハネ福音書の著者であると語る(24節)。そしてヨハネ福音書を生み出したヨハネ共同体こそが、この愛弟子の後継者なのである。
 ペトロもヨハネも、どちらが先、どちらが上ではなく、この両者が共にイエスに「付き従う」。それぞれの信仰と個性に合わせて、主が下さる使命に生きるのである。

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2021年11月28日 待降節第1主日

説教:「目を覚ましおれ」
聖書朗読:マルコによる福音書13章33〜37節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「居眠り運転からの脱却」

 最近、車の運転ミスによる悲惨な事故の報に接することが多い。これらはすべて、目を覚ましているべき時に、ちゃんと起きていることの重要性を私たちに教えるものである。
 今日の聖書箇所もまさにそのことを語っている。この短い箇所に四回も「目を覚ましていなさい」と繰り返して言う。そして聖書がそのように言うとき、そこには概ね次の三つの意味がある。
@ 「昼の子・光の子」だから。Tテサロニケ5:5、6に「あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。私たちは夜にも暗闇にも属していません。従って、他の人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」とあるのがそれです。
A 「いつであるかわからない」から。マタイ24:42に「だから目を覚ましていなさい。いつの日、じぶんの主が帰ってこられるのか、あなたがたは分からないからである」とあるのがそれです。
B 「悪魔に抵抗するため」に必用だから。Tペトロ5:8、9に「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなた方の敵である悪魔が、吠え猛る獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかりと踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」とある通りです。
 さてこのマルコ13章は終末についてのイエスの講話のまとめなのであるが、このように目を覚ましていることを聞く者に求めるのは、目を覚まし続けることによって、まさに終末のしるしをはっきりと見ることになるからだ。そう考えると、「目を覚ましている」ことが、不安に凝り固まった緊張ではなく、確かな希望の中で喜びの内に強く生きる緊張であることがわかる。

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