日本基督教団 洛北教会

2021年 教会標語「あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」(申命記31章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

21年12月のバックナンバーです。

2021年12月5日 待降節第2主日 創立記念礼拝

説教:「畏れと憐れみ」
聖書朗読:マタイによる福音書18章12〜14節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「小さい者の大きさ」

 当時の黙示思想において、神の御顔を見ることができるのは、もっとも位の高い天使だけと考えられていました。また、義人には守護天使がついているという思想もあり、イエスはこのユダヤ教における天使の思想を用いて、「小さい者」の一人ひとりが神の前にいかに重要な存在であるかを語られるのです。人間の世界では軽蔑され、見過ごされ、存在する価値もないかのように扱われている「小さい者」たちの一人ひとりに天使がついていて、直接「わたしの天の父の御顔を仰いで」、その「小さい者」のことを父に訴えているのです。「わたしの天の父」は小さい者の一人ひとりに深い関心を寄せて見守っておられるのです。そうであれば、どうしてその「小さい者」を無視することができるでしょうか。
 次にマタイは、「迷い出た羊」のたとえをここに置いて、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」ことを印象深く説きます。このたとえはルカ福音書にもありますが、ルカはこのたとえを、「罪人」と食事を共にすることを非難するファリサイ派の人たちや律法学者たちに対してイエスが語られた反論として、「失われた銀貨」や「放蕩息子」のたとえと並べて置いています(ルカ15章1〜7節)。おそらく、この「迷い出た羊」のたとえの本来の場はそちらにあると考えられます。マタイはそれを「小さい者」を大切にするようにという共同体への訓戒を語る文脈に置くことで、このたとえを自分たちの現在の状況に活かします。マタイがこの福音書を書いたとき、マタイの共同体《エクレーシア》は決定的にファリサイ派律法学者たちの「会堂」《シナゴーグ》と決裂しています。ルカでは「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」となっていますが、マタイでは「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」となるのです。

 ←クリックすると礼拝の録音が聞けます。
 ←クリックすると礼拝の録画を視聴できます。

 

2021年12月12日 待降節第3主日

説教:「悔い改めの恵み」
聖書朗読:マタイによる福音書21章28〜32節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「人生の分岐点」

 エルサレムに現れて神殿で激しい批判の行動をするイエスを憎み殺そうとする勢力(マタイでは祭司長たちや長老たち)に対して、イエスは三つのたとえを用いて反論し、彼らの不信を詰問されます。その三つのたとえの中、第二の「ぶどう園の悪い農夫」のたとえはマルコにもあり、マタイはほぼ同じ形で用いています。第一の「二人の息子」のたとえはマタイだけの独自のもので、第三の「王の婚宴」のたとえも(ルカにはありますが)マルコにはなく、マタイは他の二つのたとえを加えることによって、「ぶどう園の悪い農夫」のたとえによる反論を拡大し、マタイ独自のユダヤ教批判を展開することになります。
 第一の「二人の息子」のたとえ(21章28〜32節)は、神の国に先にはいるのは「あなたたち」(祭司長や律法学者たち)ではなく、「徴税人や娼婦たち」であるということを指摘している点では、イエスの福音告知そのものであり、とくにマタイの独自性はありません。マタイの独自性は、このたとえを洗礼者ヨハネに対する二つのグループの態度のたとえとしてここに置いたことにあります。ユダヤ教指導者層は律法を行うことに熱心で、その点で神がこれをせよと求められることに「はい」と答えていたことになります。ところが、神が洗礼者ヨハネを遣わして実際に律法の実行を求められると、ヨハネを信じないで拒否しました。それに対して、「徴税人や娼婦たち」は律法を知らず、神がこれをせよと求められることを拒んでいたが、洗礼者ヨハネが現れて義の道を示すと、ヨハネを信じて悔い改め、神の国に入る者となった、というのです。
 神が説く「義の道」は行いよりも自分の弱さを認めて神にすがる心を大切にする道なのです。それを持つか持たないか、それが今日の二つの「考え直す」においてその方向性を決める分岐点となったのです。そこが人生の分岐点です。

 ←クリックすると礼拝の録音が聞けます。
 ←クリックすると礼拝の録画を視聴できます。

 

2021年12月19日 待降節第4主日

説教:「神の物は神へ」
聖書朗読:ルカによる福音書1章46〜56節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「マニフィカト(崇める)」

 今日の箇所は「マリアの賛歌(Magnificat)」と呼ばれている。天使のお告げを受けて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と答え、すべての人に救いをもたらす神の配慮に信頼を置いたマリアが歌う讃美の歌である。
 47〜50節は神とマリアの関わりを描き、51〜55節はマリアの個人的な体験ではなく、神が人間に対して取る一般的な態度を描いている。47節の「わたしの魂は主をあがめ」を直訳すると「わたしの魂は主を大きくする」となる。彼女が主を「喜びたたえる」(直訳:大いに喜ぶ)のは「身分の低いはしため」に神が目を注いで下さったからである。このマリアの個人的体験を一般化したものが52節「身分の低い者に目を向け、引き上げた」である。はしために目を向けられる神の慈しみに出会ったマリアは神を畏れるものとなり、神の素晴らしさに出会った者としてその人生を歩み始めます。
 では「権力ある者」が引き下ろされ、「思い上がる者」が打ち散らされ、「身分の低い者」が高く上げられ、「飢えた人」が良いもので満たされ、「富める者」が空腹のまま追い返されることが、この現実社会の中ではいつ起こるのでしょうか。
 ここでは特に、神から与えられる良いものとは「神からのもの」であって、富める者から取り上げたものではないことに注意したいと思う。他の要素もみな同じであって、ここでは決して「社会革命」や「政権交代」が語られているのではない。世は以前のままであるかも知れないが、神が登場し、近づくことによって、ものの見方が逆転し、常識が覆されていくのである。神をあがめることが出来るのは、この神との出会いによってその関わりの中に引き上げられ、この出会いによって「わたしの霊がわたしの救い主である神の上に大いに喜んだ」(47節直訳)からである。

 ←クリックすると礼拝の録音が聞けます。
 ←クリックすると礼拝の録画を視聴できます。

 

2021年12月25日 クリスマス燭火讃美礼拝

説教:「愛と光を見た日」
聖書朗読:イザヤ書9章5-6節、ルカによる福音書1章26-38節、2章1-20節、ヨハネの黙示録5章12-14節
説教者 : 岡本知之牧師
奏 楽 : 中西聖嗣(オルガン)、中西寛嗣(バイオリン)
聖書朗読 : 林 加穂

 ←クリックすると礼拝の録音が聞けます。
 ←クリックすると礼拝の録画を視聴できます。
 ←クリックするとプログラムを閲覧できます。

 

2021年12月26日 降誕後第1主日

説教:「自分を超える希望」
聖書朗読:ルカによる福音書2章22〜35節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「年の寄りたるにて候」

 表題の言葉は、「徒然草」第百五十二段に登場する日野資朝の言葉である。西大寺の静然上人が何とも尊いオーラを発散させながら宮中にやって来たので、西園寺実衡内大臣が、「何という尊さだ」と言ったのに対して、「ただ年を取っているだけです」と言い放ったのである。これは人間の内的資質やその成熟に対する評価の言葉である。
 今日の聖書に登場する二人の老人、シメオンとアンナはその対極にある人物であると言って良い。シメオンは「エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」(ルカ2:25,26)と言われる人で、主が遣わすメシアに会うことがこの人生の目的であった。
  一方アンナは女預言者であり「八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」と語られている。
 二人共が神の救いの約束とその実現に自己の生涯を懸けてきた存在であると言って良い。
 今それが実現しようとしている。それさえ見ることが出来ればすべてが満たされるのである。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます」という29節の言葉がそれを明確に現している。
 自分が例えば千日回峰行に代表されるような難行苦行を達成して、更に例えば「大阿闍梨」になると云うのではなく、ただひたすらに、「救いの約束が、神の側から満たされてくること」そのことをのみ待ち望む人生がそこはある。そして、それは正しい。なんとなれば、私たちの人生の意味は神によってのみ満たされるからである。

 ←クリックすると礼拝の録音が聞けます。
 ←クリックすると礼拝の録画を視聴できます。