日本基督教団 洛北教会

2022年 教会標語「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(1テサロニケ5:16-18)

先週の説教 -バックナンバー-

22年1月のバックナンバーです。

2022年1月2日 降誕後第2主日

説教:「人生を満たすもの」
聖書朗読:テサロニケの信徒への手紙一5章16〜18節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「新しい年をこの御言葉と共に」

 テサロニケの信徒への手紙は、パウロがアンティオキア教団から離れ、「異邦人の使徒」として独立の伝道活動を展開した時代の最初の時期に書かれたと考えられています。彼はこの手紙の最後を主の来臨を待ち望みつつ「主と共に生きる」者としての、実際の歩み方に関する勧めで結びます。
 その中で「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい」(5章15節)と言っていることが注目されます。この点は、当時の宗教や道徳の一般的な水準を超えており、イエスのお言葉と生き方から受け継いだ、キリスト者独自の生き方であったと言えます。使徒は主と共に生きることについて、さらに勧めを続けます。
 使徒は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(5章16〜18節)と勧めます。人生は苦難や苦悩が多いものです。その中で喜び、祈り、感謝しなさいと言われても、そうさせる力が自分の内になければ、これは空虚な勧めです。しかし、神はキリスト・イエスにおいて、そうする力を聖霊によって与え、御自身に属する民がそのように生きることができるようにしてくださっているのです。聖霊こそ「主と共に生きる」力の源泉です。ですから、「御霊の火を消してはいけません」(5章19節)と言われます。そして、最後にもう一度、主イエス・キリストの来臨にさいして、テサロニケの信徒たちが、全く聖なる者、非のうちどころのない者とされるようにとの祈りをもって、パウロはこの手紙を終わります(5章23節)。先にも述べましたように、この祈りは3章13節の同じ祈りで4章と5章を囲い込んでおり、この両章の主要な関心がどこにあるのかを示しています。

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2022年1月9日 顕現後第1主日

説教:「生きることの意味」
聖書朗読:ヨハネの手紙一1章1〜4節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「川の流れのように」

 1節の「よく見て、手で触れた」と2節の「現れました」は、共に”アオリスト形(それが出来事として起こった事を現す過去時制)”で書かれています。イエス・キリストがこの世に誕生し、福音を告げ知らせたということは確かな事実であるという主張です。
 これに対して1〜3節の「見る」と「聞く」は“完了形(過去の行為の結果が現在も続いている事を現す時制)”で書かれていますので、イエスを見た人、イエスの言葉を聞いた人たちは、今もイエスを見ており、イエスの言葉を聴き続けている事になります。それは彼らが聞き、また見ている「命の言葉」が、今も彼らの内に生きているからです。
 命の言葉を「見て、聞いて」いる人々は、その永遠の命を「証しし、伝える」のであり、それを自分の中にしまい込んだりはしません。なぜならそれは「命」の本質に逆らう事だからです。命の本質とは常に自分自身から流れ出て、他者の中へと流れ込むべきものだからです。その命の本質をこの書簡は「交わり」という言葉で表現しています。
 「証しを受け、伝えられた」者は、それを伝えた者との「交わり」のうちに入ります。彼らが交わりの内にひとつであるのは、誰もが「見て、聞いて、証し、伝える」とう生きたに入っているからです。そうであれば、この交わりを保つためには、常に、御父と御子を「見て、聞く」という姿勢が不可欠なものとなります。
 この交わりの源泉は「御父と御子イエス・キリストとの交わり」にあります。キリスト者の語る言葉は御父と御子が示した「永遠の命」を見て、そこから聞くことによって与えられる言葉です。「見て、聞いて、証しし、伝える」という交わりを持ち続けるなら、命の内に生きていることになりますから、それはキリスト者の大きな喜びとなります。ヨハネの喜びが「満ちあふれる」ことを願って、この手紙を書いています。

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2022年1月16日 顕現後第2主日

説教:「交わりを生きる」
聖書朗読:ヨハネの手紙一1章5節〜2章2節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「そこにあるのは、私には罪がないと言うことの罪、からの光への道」

 私たちは求道者として、更には受洗者として教会に受け入れられ、その日々を歩んでいます。その両者に共通して存在する最大の罪とは「わたしには罪がない」と言うことであると8節は語ります。もし本当に自分の中に罪がないなら、私たちにはイエス・キリストも、父なる神も、弁護者も必要なくなります。それは即ち「己の腹を神として生きる生き方」であり、自分で自分を「義」とする生き方なのであります。イエス・キリストを信じ、教会の中に入れられたとは言え、そこにはユダヤ人特有の自己義認的考え方があったのかも知れません。しかしそれは将にイザヤ書が語るように「見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし松明を掲げている。行け、自分の火の光に頼って、自分で燃やす松明によって。わたしの手がこのことをお前たちに定めた。お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう。」(50章11節)と言われる世界なのです。
 これに対してこの手紙の筆者は「光の中を歩む」生き方を提示します。それは自分が罪のない潔白な人間であると主張することではなく、むしろ「自分の罪を公に言い表す」ことを意味します。そして2章1節では「これらのことを書くのは、あなた方が罪を犯さないようになるためです」と語ります。この「罪を犯す」はアオリスト時制で書かれており、「動作を一つのものとして全体的に捉えること」を意味します。即ちここでの罪とは「あの罪、この罪」の個々の罪ではなく、その根底にある「罪の本体」そのもののことです。
 その罪の本体こそが「私は正しい、私には罪はない」と言わしめるのであると言うのです。しかし考えてみれば、人みな等しくそのような者であったのではないでしょうか。先ずそのことを知り、認めることが大切です。そして弁護者イエス・キリストを知ることを通して、私たちに光への道が開けてくるのです。

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2022年1月23日 顕現後第3主日

説教:「愛の実現」
聖書朗読:ヨハネの手紙一2章3〜11節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「人の愚かさは止めどなく」

 ヨハネ第一の文(ふみ)は、本書は新約聖書の中で「罪」という用語が(その長さの割に)もっとも多く出てくる文書です。長老ヨハネ(伝統的にヨハネ文書の筆者をこう呼びます)がこの手紙を書いた時、彼の共同体は分裂の危機に直面していました。自分は光の子であり、自分には罪も影もないと考える人々がいて、これら自分を神とする人間の本性的な罪の深さを痛感していることがうかがわれます。出て行った者たちは、長老から見れば、自分の理解とか悟りを義として、十字架の上に血を流されたイエスを「肉体をとって来られた御子キリスト」であるとしない、すなわち自分の罪のための贖いとしない偽り者です。十字架の上にイエスが血を流された事実を見た長老(ヨハネ19章34〜35節)にとっては、真理と偽りの分岐点はこの一点にあります。
 長老は、神を知る者として光の中を歩む者は、「彼の誡め」を守るべきことを説いて、「彼の内にとどまっていると言う者は、あのお方(イエス)が歩まれたように、その人自身も歩まなければなりません」と言います(2章3〜11節)。この箇所はほとんど「彼」という代名詞を用いて語られていますが、この「彼」が神を指すのかイエスを指すのか解釈が分かれています。しかし、「神の誡め」と「イエスの誡め」は違うものではなく、「イエスの中にいる」ことによって「神の内にとどまる」ことになるのですから、あまり厳密に区別する必要はないでしょう。長老は「彼の誡め」を「あなたたちが初めから受けていた古い誡め」であると同時に、今この状況で改めて書き送らなければならない「新しい誡め」とし、兄弟を愛することこそ「彼の誡め」であるとします。これは、自分の霊的理解を理由にして他の兄弟たちの信仰を軽蔑・批判し、交わりから出て行った者たちを念頭において書いていると考えられます。

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2022年1月30日 顕現後第4主日

説教:「永遠の命」
聖書朗読:ヨハネの手紙一2章12〜17節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「節目を生きる」

 この2月に私は70歳を迎える。これは明らかな人生の節目である。昔、NHK交響楽団の<桂冠指揮者(この称号、ちょっと気持ち悪い)>であった岩城宏之が「70を超えて、尚自分の地位に連綿としてしがみついている奴がいる。とっとと引退しろ」と威勢のいいことを若い頃には言っていた。しかし自分が70を超えたとき、彼は「俺はまだまだやれる」といって、将にその地位にしがみついて見せてくれた。人間とはそういうものである。
 そのような人間達の世界に長老ヨハネは次のように言う。「(15節)世も世にあるものも愛してはなりません。世を愛する者があれば、父の愛はその人の内にはありません。(16節)すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生きざまの驕りは、父からのものではなく、世からのものだからです。(17節) 世と世の欲は過ぎ去ります。しかし、神の御旨を行う者はとこしえにとどまります。」(直訳)  これまでの永い牧師人生で幾つかの「オリジナル箴言」を世に送り出してきた。その一つに「人生は矢のように過ぎ去る。ただ神と共に生きた日々だけが永遠に残る。」と云うのがある。そして、そのルーツ、淵源はこの御言葉だったのだと思う。
 この中の「とこしえにとどまる」を新共同訳は「永遠に生き続ける」と訳した。このより正確な意味は「永遠に向かって留まる」ということである。大事なのはこの「向かって」ということであり、その神に向かう「方向性」が大事なのである。神の永遠性に向けて、すなわちその永遠の命に向けて、そのものの存在が留まり(有り)続けるのである。
 今一つの箴言はこうだ。「悲しませたまま寝かせてはならない。怒らせたまま帰してはならない。一日の終わりも、生涯の終わりのように。」先の箴言と方向性は逆だけれども、結局一つのことを言っているのだと、今、気づかされる次第である。

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