日本基督教団 洛北教会

2022年 教会標語「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(1テサロニケ5:16-18)

先週の説教 -バックナンバー-

22年2月のバックナンバーです。

2022年2月6日 顕現後最終主日

説教:「み子に倣う」
聖書朗読:ヨハネの手紙一 2章29節〜3章6節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「彼に似る者となる」

 反キリストの出現に終末の近いことを見る長老は、「彼が現れるとき」、すなわち「彼の来臨《パルーシア》」にさいして恥じることのないように自分を清く保ち義を行うように説き勧めます(2章28節〜3章10節)。この一段は、ヨハネ共同体が最初期のキリスト信仰共同体に一般的であった来臨待望を共有していることを明白に示しています。
 ところで、ヨハネ福音書は「キリストの来臨《パルーシア》」のことは語らず、永遠の命が現在のことであることを強調しているのは顕著な事実です。それで、福音書の著者と来臨を語る書簡の著者は別人であり、後者が前者の著作に後で終末的待望を語る部分(たとえば6章の死者の復活を語る章句)を挿入したという説が行われています。この議論には、救いの現在性の主張と終末における救済待望は両立せず、両者が同じ人物の中に共存することはありえないという見方が前提とされています。 この前提は間違っています。御霊によって救いの現在を強く体験すればするほど、今は不完全な姿の救いが将来完全な姿で現れるのだという希望と確信が強くなります。「すでに」という語で語られる救いの現在性と、「まだ」という語で語られる待望は、矛盾するものではなく、互いに強め合う表裏の関係です。この関係は、イエスにおいては「神の国」がすでに到来しているという面と、将来の「人の子」の到来を待ち望む言説となって現れています。パウロにおいては、キリストにある命の御霊の現実を語る告知と、《パルーシア》における栄光の顕現を待ち望む告白となって現れています。長老はこう語ります。「愛する者たちよ、わたしたちはいま現に神の子です。しかし、わたしたちがどのような者になるのかは、まだ明らかにはされていません。わたしたちは、彼が現れるならば、わたしたちは彼に似る者となることを知っています。わたしたちは彼をあるがままの姿で見ることになるのですから。」(3章2節)

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2022年2月13日 受難節前第3主日

説教:「神の種を持つ」
聖書朗読:ヨハネの手紙一 3章7〜10節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「神と悪魔の分岐点」

 まず「罪」と「義」とが対比されます。ここで「罪」とは「受肉のキリスト」を認めず、従ってそのキリストの「十字架の贖罪」をも認めず、「自らの罪」を認めず、従って「救いの必要性」をも認めない在り方を指す言葉です。これはいわゆる「キリスト仮現説」の立場です。
 翻って「義」とは、先週の説教でも触れましたが、神との「関係の中に義しく立つ」ことを意味します。この「義しく」とは「誠実に」ということでもあり、キリストの受肉とその生涯、なかんずくその十字架の死と復活、ならびにその昇天を、父なる神の御心と信じて受け入れ、告白して生きることに他なりません。
 9節は次のように語ります。「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。」ここで「神の種」とは神の「御言葉の種」のことであり、それは同時に「命」であり「キリスト・イエス」のことでもあります。
 結局すべては「言葉」をめぐる問題だったのです。言葉が愛を運ぶと共に、言葉が憎しみを運ぶこともあります。心ない言葉によって子ども達を含めた多くの人々が傷つき、自ら命を絶っていきます。しかし他方、愛のある共感の言葉によって支えられ、生かされる人生があるのです。 「神の子たち」と「悪魔の子たち」の分岐点は何処にあるか。それはどちらの言葉を選び生きるかにあるのです。教会に生きるとは神の言葉を選び続けて生きることを意味します。
 その言葉に聞き続けて生きることを意味するのです。「正しい生活」(直訳は「義の行い」)と「兄弟愛」がその標識です。

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2022年2月20日 受難節前第2主日

説教:「言葉や口先だけでなく」
聖書朗読:ヨハネの手紙一 3章11〜22節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「霊の命と愛の働き」

 カインはアベルを憎み、その結果彼を殺しました。憎しみには殺す行為が潜在的に含まれています。兄弟を憎む者は、神の前では「人殺し」と同じです。兄弟を愛さず、兄弟を憎む者は「人殺し」であって、彼の中には永遠の命はありません(15節後半)。すなわち、兄弟を愛さない者は「死の中にとどまっている」のです。15節は直前の「愛さない者は、死の中にとどまっています」という句を説明しています。
 長老は15節で2回「人殺し」《アントローポクトノス》という珍しい語を用いています。この名詞は、新約聖書ではこことヨハネ福音書8章44節に1回出てくるだけです。では、集会の交わりから出て行く行為はすべて、兄弟への愛を欠く行為として、「死の中にとどまる」者の烙印を押されて断罪されるのでしょうか。ルターなどの宗教改革者はローマカトリック教会から出て行きました。ピューリタンたちは英国国教会から出ました。彼らの行為は、兄弟への憎しみとして断罪される性質のものでしょうか。決してそのようなことはありません。霊の生命は、肉によって硬化した人間的制度から出て行かなければ生きることはできません。そもそもヨハネ共同体を含む最初期のキリストの民は、ユダヤ教団から出て行ったのです。彼らの御霊の命の発現としての改革の行為と、ヨハネの手紙に見られる「イエスがキリストであることを否定する」者たちの分派行為を同一視することは誤りです。ヨハネは「イエスこそ肉をとって来られたキリストである」という真理を護持するために、その真理を否定して出て行った者たちを激しく非難したのです。兄弟への愛を欠く行為を「人殺し」と呼んで非難した長老は、その対極にある愛の姿としてイエスを指し示し、「あのお方は、わたしたちのためにご自分の命を差し出してくださいました」と言い、「このことによってわたしたちは愛《アガペー》ということを知りました」と語ります。

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2022年2月27日 受難節前第1主日

説教:「神の証し」
聖書朗読:ヨハネの手紙一 5章5〜13節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「神の証し、神の信頼」

 普通「信仰」というと、私たち人間が神を信じることだと考える人が多いのではないでしょうか。しかし聖書が語る信仰はその真逆のことを指し示しています。確かに5節が語るのは人間の側からの「信仰」ですが、9節では「人の証し」に優る「神の証し」が提示されます。この神の証しとは御子イエス・キリストの十字架の死と復活によって示された神の愛と救いの出来事を指しています。
 神は先ず幼い夫婦であったヨセフとマリアにその独り子をお託しになりました。神が先ず人をお信じになったのです。託されたイエスはひたすらに父なる神の御旨を世に向けて証しして十字架に至るまでの生涯を全うされましたが、弟子たちすらその歩みに従う事はできませんでした。しかし御復活の主イエスは、落胆の中に在る弟子たちに現れ、再びご自分との関係の中に、彼らをこそ甦らされました。
 神が先ず信じ、先ず愛し、証しを立て、そして救って下さる、これが聖書の語る神なのです。その神を尚信じることが出来なかった私たちに、再び御復活の主が先ず出会って下さり、わたしたちを神との関係の中に甦らせて下さった、これが「救い」ということの中味です。
 この書簡の4章9、10、19節に「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」と語る通りです。

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