日本基督教団 洛北教会

2022年 教会標語「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(1テサロニケ5:16-18)

先週の説教 -バックナンバー-

22年3月のバックナンバーです。

2022年3月6日 受難節第1主日

説教:「神の祈り」
聖書朗読:ヘブライ人への手紙2章5〜12節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「苦しみにおいて天使を超える者」

 ヘブライ書が御子を天使にはるかに優ることを強調したのは、天使を通して語られた言葉に対する違反が罰を受けたのであれば、御子によって語られた救いの言葉をないがしろにすることがどれほど重大な神への背きになるかを印象づけるためでした。
 当時のユダヤ教では、モーセ律法は「天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたもの」と理解されていました(ガラテヤ3:19、使徒7:38と53)。そのモーセ律法には、違反に対する厳しい処罰が定められていました。御子は天使にはるかに優る方であるから、御子によってこの終わりの時に最終的に語られた救いの言葉、すなわち福音の言葉は、モーセ律法に対するよりもはるかに真剣に、厳粛に対さなければならない、と著者は警告します。
 わたしたちが受けたこの「大いなる救い」は、最初主イエスご自身によって語られ、それを聞いた人々、すなわち使徒たちからわたしたちに伝えられ確証された、と著者は言っています。本書の著者と読者は、使徒たちから福音を聞いて信仰に入った世代、すなわち第二世代のキリスト者であることになります。しかし、彼らは伝え聞いた報知を信じているだけでなく、現にいま「神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇蹟、御心のままになされる聖霊の分与によって証ししておられる」のです。
 わたしたち第二世代以降のキリスト者は、使徒たちが伝えるイエス・キリストの報知(それが新約聖書です)を聞いて信じています。しかしただ伝え聞いた伝承を信じているのではなく、信じる者に与えられる聖霊の内なる証言が、それを確証してくださいます。外にある伝承と奇蹟、そして内にある聖霊の確証、これが信仰を形成します。

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2022年3月13日 受難節第2主日

説教:「神への忠実、人への憐れみ」
聖書朗読:ヘブライ人への手紙2章14〜18節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「天使と悪魔・人間と御子」

 御子が天使に優ることが、「神は来るべき世界を天使たちに従わせなかった」事実から論じられます。天使たちに従わせたのでなければ、誰に従わせたのか。それは当然御子ですが、それを論証する聖書の言葉から、著者は御子が人間となられた意義を論じ、人間となられた御子こそが「救いの創始者」(あるいは導師)であり、大祭司となるにふさわしい方であると、主題の「大祭司キリスト」への巧みな導入とします。
 「来るべき世界」は、「来るべき《アイオーン》」(6章5節)と同じで、神の救済と栄光が完全に実現する終末の事態を指しています。その世界が復活して高く上げられたキリストに従うようになるのです。
 栄光の御子である方が「血肉を備えた」わたしたちと同じ人間になって、あらゆる試練と苦難を味わってくださったからこそ、弱い人間の苦しみが分かる「憐れみ深い、忠実な大祭司」として、わたしたちを神の前に執り成してくださることができるのです。大祭司は、神の前に立つ神聖さと、執り成しをする民と同じ立場に立つ両面が求められます。人となられた神の御子であるイエスこそ、その資格をもつ大祭司です。
 人となられた御子であるイエスが、わたしたち人間のためになしてくださった究極の出来事は、イエスが「すべての人のために死んでくださった」、あの十字架の出来事です。イエスは、「御自分の死によって、死をつかさどる者、すなわち悪魔を滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放」してくださったのです。この点は、後でさらに詳しく大祭司による贖罪の業として取り扱われますが、ここでは御子が人となり、イエスとして地上の働きをしてくださった事実が強調され、大祭司キリストへの導入とされています。

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2022年3月20日 受難節第3主日

説教:「キリストに連なる」
聖書朗読:ヘブライ人への手紙3章7〜14節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「主に連なり、今を生きる日、それが今日」

 先の段落の最後の、「もし確信と希望の誇りを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです」という結びの言葉を受けて、神の家に属する者たちが確信を持ち続け、それによって神の安息に入るように励ます奨励が続きます。
 まず、その安息に入ることを妨げる不信仰の恐ろしさが警告されます(3章7節〜19節)。著者は詩編95編7節〜11節を引用して、聞いた御言葉に対して心をかたくなにしないように、その結果の恐ろしさを示して警告します。詩編95編は、万物の創造者であり支配者である主によって救われた民の幸せを賛美する詩編ですが、その後半部で、荒野で主を試みて約束の地に入ることができなかった出エジプトの時の出来事を先例として、イスラエルの民に「今日こそ、主の声に聴き従わなければならない」と、その救いを失わないように警告しています。著者は、その後半部を引用して、ともすれば福音の言葉によって聞いている、来るべき世で栄光と安息にあずかるという約束を信じ切れず、この世の安楽に立ち戻ろうとする兄弟たちに、「最初の確信を最後までしっかりと持ち続ける」ように励まします。詩編も言っているように、「今日」こそ、神の約束の言葉を聴き、その言葉に聴き従うように呼びかけられている日なのです。荒野の日も、この詩編が歌われた日も、ヘブライ書の読者がこの句を目にした日も、そして現代にこの書を読むわたしたちの日も、みなこの「今日」なのです。わたしたちが生きている一日一日が「今日」なのです。
 その「今日」は私たちが最初の確信を与えられた日でもあります。私たちはキリストに連なる時にのみ、キリストが受けた栄光に与る事が出来ます。キリストだけが神の前に立つ道を開く大祭司だからです。

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2022年3月27日 受難節第4主日

説教:「安息に与る」
聖書朗読:ヘブライ人への手紙4章1〜5、11節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「この約束は、反故にはされない」

 安息日は「迎える」のではなく「与る」のである。もっと正確に言えば「主の日」を迎えて「神の安息」に与るのである。「安息」とは個々人に分与される特定の状態ではない。例えば「今日は休みだ、うれしいな〜」というような。
安息の本質は「私の安息」ではなく、1節にあるように「神の安息」なのである。それはいうまでもなく天地創造の七日目に神が創造の業を完成されて「休息」されたことに由来する。この「神の安息」に私たち人間が「与る」のである。
 ではなぜ神は七日目に休まれたのか。それは一言で言うならば、神が人間との交わりに入る日として取り分けるためであった。つまり、他の一切のことに心奪われることなく、ご自分に似せて造られた人間に対して並々ならぬ愛を十分に注ぐためである。それゆえその日は、人間にとっては祝福に満たされた聖なる特別な時となり、真の安息を味わう時となったのである。
 ただし、厳密に言うと我々が礼拝を守っている日曜日は創造の第七日ではなく第八日目に当たる。それが聖書の記述に違背するといって批判し、厳密に七日目に礼拝を守る人々もいるのである。(例えば「セブンスデー・アドベンティスト」のように。) 我々としてはそれらの信仰や教会を否定したり批判する必要はないが、我々には我々なりの理解が有るのである。
 六日目に神は創造の業を「離れて」休息されたとある。つまり神はもう一度「創造」の現場に戻ってこられ、その業を継続される。それが神の更なる創造、新たな創造の業の始まりなのである。そしてその第一日が日曜日、即ち主の復活の出来事の日なのである。だからヘブライ書はいう。神の約束は「まだ続いている」と。

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