日本基督教団 洛北教会

2022年 教会標語「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(1テサロニケ5:16-18)

先週の説教 -バックナンバー-

22年4月のバックナンバーです。

2022年4月3日 受難節第5主日

説教:「虚偽を滅ぼすもの」
聖書朗読:ヘブライ人への手紙4章12〜16節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「真実の言葉と、言葉の真実」

 今日の箇所を貫くテーマは、「生きて働く神の言葉への信頼」ということです。わたし達が「神を信じる」と言うとき、それは一体何を信じているのでしょうか。神が存在することを信じているのでしょうか。或いはまた神は愛であると言うことを信じているのでしょうか。そうではなく、御言葉の力とその命そのものを信じているのです。
 しかし同時に、その言葉は諸刃の剣でもあります。自分達に敵対する者の肉を切り骨を断つだけでなく、その言葉は同時に、敵の滅びを願う私たち自身の「精神と霊、関節と骨髄を切り離す」(12節)ものでもあるのです。それは考えてみれば恐ろしいことです。けれども私はこのことの中にこそ、真の希望があると受け止めています。今、ウクライナに侵攻してしまったロシアが抜き差しならぬ状況に陥っています。武力の行使以外にもロシアが行っていることは、言論統制であり、すべてのことについて嘘をつき続けるという事です。(それはすべての国家というものが持っている普遍的な要素であるのかも知れません。しかし今回のことは、いくら何でも度が過ぎています。) さて、そこにあるのは一体何でしょうか。それは唯一つ、神(神の言葉)に対する「畏れの喪失」ということです。それがどれほど大きな悲劇を人類にもたらすか、そのことを私たちは真剣に考えなければなりません。
 その故にヘブライ書は「この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」(13節)というのです。これは「脅し」ではありません。わたしたちに対する愛の配慮、愛の迫りから出てくる言葉です。哲学者の池田晶子の名台詞に「神を殺した私たちの死」というのがあります。「神は死んだ」と言ったニーチェに対する彼女の言葉です。神への畏れを失うとき、私たちは言葉の真実そのものを失うのです。

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2022年4月10日 受難節第6主日(棕櫚の主日)

説教:「主の名によって祈る」
聖書朗読:ヘブライ人への手紙5章1〜10節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「任命される前と後」

 大祭司は、民を代表して神の前に出て、供犠を行い、民を執り成し、民を神に受け容れられるようにする務めを果たします。その働きの偉大さは4章10節〜10章18節全体で詳しく語られることになりますが、この段落ではわたしたち人間と同じ弱さを担う一人の人イエスが、この大祭司として立てられたという事実が取り上げられます。
 イエスがわたしたちと同じ試練を体験された一人の人であることが強調された後(4章14〜16節)、そのイエスが神によって大祭司として立てられたことが、聖書の二箇所(詩篇2編7節と110編4節)を論拠として語られます(5章1〜6節)。詩篇2編7節は、初期の教団ではいつもメシア預言として引用されていましたが、これをイエスの大祭司職への任命としていることに、著者の独自性が見られます。しかも、大祭司としてのイエスの地位が「メルキゼデクと等しい祭司」とされていることは、その意義が後で詳しく議論されますが(7章)、著者にとっては重要なキリストの一面です。
 続いて、こうして神に任命された大祭司が、「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら祈り」、「多くの苦しみによって従順を学ばれた」現実の人間であることが、再び強調されます(5章7〜10節)。この箇所の主語はいつも「キリスト」です。先には、わたしたちと同じ人間である「イエス」が大祭司職に任命されたことが語られましたが、ここでは栄光の座にあげられた御子であるキリストが、「肉において生きておられたとき」、このように人間の弱さを共にしてくださった方であることが描かれます。神による大祭司職への任命を真ん中にして、その前と後では視点が変わり、見る方向が逆になっています。キリストがそのような方であるからこそ、キリストがすべての人間にとって「永遠の救いの源」となってくださるのです。

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2022年4月17日 復活日(イースター)

説教:「あの愛を忘れず」
聖書朗読:ヘブライ人への手紙6章1〜12節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「その真意は励まし」

 この手紙の筆者は迫害の中にある読者に「キリストの初歩の言葉を離れて、成熟を目指して進みましょう」と励まします(6章1〜3節)。「初歩の言葉」とは「死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教え」です。「死んだ行い」というのは、生ける神に背く偶像礼拝の事です。「神への信仰」は天地の創造者なる唯一の神への信仰です。この神は、終わりの日に死者を復活させ、最後の審判を行われる神、すなわち終わりの日の完成を目指して歴史を支配される神、救済史的な唯一神です。
 成熟を目指して進もうという励ましが、その裏側の停滞と後退の危険を語ることで強調されます(6章4〜8節)。停滞は後退と墜落の危険をはらんでいます。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら」、さらに深い理解を求めて精進しないならば、その弛緩の隙に乗じて誘惑が忍び込み、信仰から落ちてしまう危険があります。著者は、「その後に堕落した者」は「神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だから」赦されることはない、と厳しい態度をとり、それを農作物の比喩で語ります。この二度目の悔い改めを認めない厳しい姿勢は、後の教会史で大きな論争の種となります。
 このように厳しい姿勢をとりながら、著者は読者には将来に大きな希望があるという確信を語ります(6章9〜12節)。神は正しい方であるから、彼らが聖徒たちに示した愛(ローマの信徒たちは援助の働きで有名でした)をお忘れになることはなく、来るべき日の救いのために備えをしてくださっているのだから、最後まで希望を持ち続けるように励まします。

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2022年4月24日 復活後第1主日

説教:「命を受け嗣ぐ」
聖書朗読:ヘブライ人への手紙7章11〜19節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「メルキゼデクって誰?」

 聖書には謎の人物が時々登場するが、その代表格がメルキゼデクであろう。この人物は旧約聖書が伝える物語の登場人物としては、創世記14章にのみ、一度だけ姿をあらわす (他には詩篇110:4に一度言及があるだけである)。
 死海周辺の都市国家が、彼らを支配していたメソポタミアの都市国家群に闘いを挑んで敗れ去ったとき、ソドムにいたアブラハムの甥ロトも連れ去られてしまう。アブラハムはロト救出の為に立ち上がり、メソポタミア都市国家群を打ち破る。そのときアブラハムを祝福するために、サレムの王のメルキゼデクがやって来るのである。
 サレムとは、ここではエルサレムのことであり、メルキゼデクの実際の発音はマルキーツェデクでああり、それはマルキー<私の王>とツェデク<義>の合成語なので「私の王は義」と言うことになる。
 創世記によれば「彼には父もなく母もない」。また「系図もなく」、更には「生涯のはじめもなく、命の終わりもない」のだという。要するに人間を超えた存在なのであるが、ヘブライ書がここでこの謎の人物を持ち出したのは如何なる動機によるのであろうか。答えは簡単である。神に造られた者の存在論的永遠性を語るためである。メルキゼデクこそその原型(アーキタイプ)であり、主イエスこそ完全型(コンプリートタイプ)なのである。 それ故に、この主イエスを信じ、その御名によって祈り、かつ生きる者は、全員が主イエスの命を生きる者とされるのである。即ち、その肉体の生死を超えて流れる神の永遠の命に預かりつつ生きること、これがキリスト者の恵みである。
 この私の生涯を、その始めも終わりをも超えて、神の命が流れ続けて下さる。そしてその永遠の命の中に抱きとめて下さる。それが復活祭の喜びなのである。

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