日本基督教団 洛北教会

2022年 教会標語「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(1テサロニケ5:16-18)

先週の説教 -バックナンバー-

22年5月のバックナンバーです。

2022年5月1日 復活後第2主日

説教:「贖いとは何か」
聖書朗読:ヘブライ人への手紙7章25〜8章6節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「永遠の大祭司」

 メルキゼデクの名が出てくるのは創世記の箇所以外はここだけですが、レビ系の祭司制が確立していたイスラエルの時代にこのような非レビ系祭司の出現が預言されていたことは重大な意味があります。パウロにとって創世記15章6節がそうであったように、著者にとってはこの詩篇11編4節がすべての議論の土台石です。
 立論の仕方は違いますが、著者はパウロと同様、イエス・キリストの出現によってモーセ律法は「弱くて無益なために」廃止されたことを宣言しています。著者にとっても、「キリストは律法の終わりとなられた」のです。
 ただ、パウロは神殿崩壊前の時代にモーセ律法を絶対化しているユダヤ人に向かって命がけの戦いをしたのに対して、著者の時代の異邦人宣教においては既成の事実となっていたことが大きな違いです。
 さらに、詩編110編4節が引用されて、この「メルキゼデクの位の大祭司イエス」は神の誓いによって祭司とされたことにおいて、誓いなしで祭司とされたレビ系の祭司より優っていることが論じられます(7章20〜25節)。また、レビ系の祭司は死ぬので多くの人が次々に祭司に任じられましたが、復活者イエスは永遠に生きておられるので、ただ一人で変わることなく祭司の務めを果たされる大祭司であることが示されます。そういう大祭司として、イエスは「いっそう優れた契約」の保証となられたことが言及され、以下の契約に関する大きな議論の導入となっています。
 最後に、これまで大祭司としてのイエスについて述べてきたことをまとめて、大祭司イエス・キリストへの賛美がなされます(7章26〜28節)。この賛美は同時に、8章から始まる大祭司イエス・キリストに関する大きな議論の前置きになっています。

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2022年5月8日 復活後第3主日

説教:「思いと心」
聖書朗読:ヘブライ人への手紙8章6〜13節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「新しい契約」

 ここでは、優れた聖所で仕える優れた務めの大祭司が仲保者となって保証する「契約」が、「あの最初の契約」すなわちモーセ契約に比べていかに優る質のものであるかが述べられます。そのために著者は、エレミヤのあの「新しい契約」の預言(エレミヤ31:31〜34)を引用します。
 著者はこの預言の前半(31,32節)を引用して、新しい契約が与えられるということ自体、それまでの契約が欠けたところのあるものであることを示しており、事実この預言で主はこの契約の民を非難しておられるとします。その後で後半(33,34節)を引用して、代わって与えられる新しい契約の質を語ります。
 その契約においては、契約の言葉は石の板に刻まれるのではなく、民の心に書きつけられます。そして、神の側の決定的な働きによって、民の罪が拭い去られます。このような「新しい」契約が与えられることによって、最初の契約(モーセ契約)は古び、消滅します。
 イエス・キリストの十字架と復活の出来事を、神が民と新しい契約を結ばれた出来事であるとし、それをエレミヤの預言を論拠として語るのは、初期の福音宣教共通の基本的な理解です。パウロもキリストの出来事を「新しい契約」として宣べ伝えました(コリントU3章)。著者もその共通の理解の中で語っていますが、著者の独自性はその新しい契約を、契約の仲保者(契約の両当事者の間に立って、契約を保証する人物)が新しいいっそう優れた大祭司になったことで根拠づけていることです。復活者イエス・キリストが大祭司として確立してくださった神と人との結びつきは、預言者が終わりの日に実現すると預言していた「新しい契約」という終末的事態なのです。

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2022年5月15日 復活後第4主日

説教:「恵みの大祭司」
聖書朗読:ヘブライ人への手紙9章11〜15節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「血の贖い」

 著者は「最初の契約」、すなわちモーセ契約において神を礼拝する場所の構造を(現実の神殿ではなく旧約聖書の幕屋に関する規定から)解説します。これは読者がユダヤ人であれば必要ないことです。神を礼拝する場所としての幕屋は、第一の幕屋(聖所)と第二の幕屋(至聖所)に分かれており、それぞれに各種の用具があります。著者はそれらの用具について解説することは断念し、聖所と至聖所に分かれている構造だけを取り上げます。
 続いて、その幕屋で行われる礼拝の中で、大祭司が年に一度至聖所に入って行う祭儀の意味が解説されます(9章6〜10節)。大祭司は年に一度至聖所に「自分自身のためと民の過失のために献げる血を携えて」入り、その血を贖罪所に注いで罪の贖いのための祭儀を行います。このような構造の幕屋で、大祭司だけが年に一度行う中心的な祭儀(レビ16章の贖罪の日の祭儀)を解説した上で、著者は「この幕屋とは今という時の比喩《パラボレー》です」と、その意義を説きます。「今の時」とは、1章1〜3節で示された「この終わりの時代」、神が御子によって最終的に語りかけ、その救いの働きを成し遂げられた時代、あるいはその終末的現実を指しています。
 パウロは創世記1〜3章のアダムを「来るべき方」キリストの《テュポス》(型)であるとしましたが(ローマ5章14節)、著者は旧約聖書の祭儀体系全体を「今の時の《パラボレー》(比喩)」とします。用語は違いますが、両者とも聖書を予型論的に解釈していると言えます。予型論というのは、旧約聖書の人物や出来事や制度などを、神が終末時に完成してくださる救いの出来事を予め指し示すための「型」とする聖書解釈の方法です。著者はこの予型論の方法を駆使して、大祭司キリストの働きがどのような質のものであるかを説きます。この箇所は著者の本領がもっとも遺憾なく発揮された箇所であり本書全体の白眉です。

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2022年5月22日 復活後第5主日

説教:「どこにいるのか」
聖書朗読:創世記3章1〜10節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「あなたは何処にいるか」

 表題に挙げた9節の言葉は天地創造の後、神が人に語り掛ける最初の言葉である。そしてこの言葉こそ、危機に瀕している者に、今の自分の立ち位置や状況を今一度確認せよという神からの警告の言葉であり、また救いの言葉でもあるのである。
 昔、生徒から次のような質問を受けたことがある。「先生には神さまの声が聞こえるのですか」と。みんな理解力のある利発な子ども達(と言っても高校生だが)であったので、クラスの全員が一斉に私の方を見、一体どんな答えが返ってくるか、興味深そうに耳を欹てて<緊張の一瞬>を造り出していた。私は答えた。「うん、あるよ、まいにちまいにち、また日に何回も聞いているよ」と。軽い驚きの声が上がった。そこで私は続けて言った。「神さまの声は、基本的に問いとして発せられた声なのだ。是には二つあってね、一つは『あなたは何処にいるか』という問いであり、今ひとつは『あなたはどちらを選ぶか』という問いなんだよ。前者は創世記の問いであり、後者は申命記の問いなんですよ」と。
 私たちはその生涯を貫いて、この二つの問いを問われつつ、その人生を歩むのである。この二つの問いに誠実に応答しつつ歩む限りに於いては、その人生は守られかつ祝福された人生となる。これが創世記と申命記が語ることである。そしてその正反対が1節から7節までのアダムとエバなのである。この二人は人類(アーダーム)の代表であり、また人類そのものなである。またここに登場するヘビは悪魔の化身、または悪魔そのものと解さているようだが、そんなことはどこにも書いていない。このヘビとはむしろ人類の知恵の象徴であり、その知恵が唆す「目が開いて、神のように善悪を知る者となること」への欲望を生きる者となった。「神の声」ではなく「自分の声」に聴き従う時、人は死ぬ。これがこの箇所の真のメッセージである。今、人類は存亡の危機にある。

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2022年5月29日 昇天後主日

説教:「ただ一度の人生」
聖書朗読:ヘブライ人への手紙9章24〜28節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「一回性と永遠性」

 「血による贖い」の思想は、著者独自のものではなく、旧約聖書の祭儀制の中心思想であり、ユダヤ人がみな共有している思想です。旧約聖書では「贖い」は二つの意味で用いられています。一つは人を捕虜や奴隷など拘束された状態から解放すること、他の一つは罪を拭い去って破壊された交わりを回復することです。
 ここでの「血による贖い」は後者の意味で、犠牲の血によって人の罪がぬぐい取られて、神との交わりが回復することを意味しています。この場合の「罪を贖う」は「罪を清める」とほぼ同じ意味になります。新約聖書では二つの用法が重なり、「罪を清めて、人を罪の支配力から解放する」という意味で、「贖い」の一語で語られるようになります。
 著者は、大祭司キリストが成し遂げてくださった「贖い」の働きを、「罪を拭い去って(=清めて)神との交わりを回復する」働きと見て、この段落でその一回性と究極性を強調します。地上の幕屋に仕える大祭司に対して天上の幕屋で仕える大祭司キリストは、「世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださった」という対比が取り上げられます(9章23〜28節)。一回限りの出来事であることは、それが最終的な贖いであること、究極の贖いであることを意味しています。
 モーセ律法は「やがて来る良いこと(終末時の救いの実現)」を指し示す「影」に過ぎず、その「実体」ではないのです。あの贖罪日の雄牛や雄山羊のいけにえは、それが繰り返されること自体が、それが不完全なものであることを示しています。
 それに対して大祭司キリストは、「罪のために唯一のいけにえを献げて」神の聖前に出られたのですから、それ以外の供犠はもはや必要でありません。キリストは唯一の献げ物(御自身の血)によって、人を永遠に完全な者とされるのです。

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