日本基督教団 洛北教会

2022年 教会標語「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(1テサロニケ5:16-18)

先週の説教 -バックナンバー-

22年6月のバックナンバーです。

2022年6月5日 聖霊降臨日(ペンテコステ)

説教:「実体あるものを受け取る」
聖書朗読:ヘブライ人への手紙10章1〜10節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「影と実体」

 今日の1節は「影」としての律法とその「実体」を語ります。律法が影であることは判りました。ではその「実体」とは何なのでしょうか。そんなの、イエス・キリストに決まってるじゃないですか、と思う方が多いことと思います。しかしその内容、特に5節から9節までを丁寧に読むと、事柄は更に深いものであることが判ります。
 この箇所の新共同訳の翻訳もさほど間違ってはいませんが、原文に沿って私なりに要約・整理すると以下のようになります。
(5節)あなたはいけにえや捧げ物を望まず、わたしに体を与えて下さった。
(6節)あなたは全焼の献げものと罪のためのいけにえを喜ばれなかった。
(7節)あなたの御心を行うためにわたしは来ました。
(8節)あなたは全焼の献げものと罪のためのいけにえを喜ばれなかった。
(9節)あなたの御心を行うためにわたしは来ました。
(10節)その御心によって、イエス・キリストの体がただ一度で永遠に捧げられたことを通して、私たちは聖別されたのである。
 一読して明らかな通り、その基本的な骨組みは「あなた」と「わたし」の対比と一体性にある。このあなたとわたしの対応的関係にこそ、この箇所の強調点である。そしてこの父と子の相互信頼関係とその一体性こそが、1節にある「実体」の本質なのである。
 その実体が「その御心によって、イエス・キリストの体がただ一度で永遠に捧げられたことを通して、私たちは聖別された」という恵みがもたらされた。父と子の一体性の本質は「愛」であって、その愛の実体が「聖霊」なのである。この愛こそが「三位一体」の実体なのである。今日は「聖霊降臨」の主日であり、次聖日は「三位一体」の主日を迎える。

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2022年6月12日 三位一体主日

説教:「神の右の座に」
聖書朗読:ヘブライ人への手紙10章11〜18節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「犠牲祭儀の超克」

 モーセ律法は(終末時の救いの実現)」を指し示す「影」に過ぎず、その「実体」ではない。それに対して大祭司キリストは、「罪のために唯一のいけにえを献げて」神の聖前に出られたのですから、それ以外の供犠はもはや必要ありません。キリストは唯一の献げ物(御自身の血)によって、人を永遠に完全な者とされるのです。キリストがその血によって成し遂げられた贖いは、究極の贖いであり、それ以外のものを廃止するのです(11〜14節)。
 このことを著者は聖書を根拠にして論証します(5〜10節)。著者は詩篇40編7〜9節を引用します。ヘブライ語聖書では「ただ、わたしの耳を開いてくださいました」とあるところが、七十人訳ギリシア語聖書では「むしろ、わたしのために体を備えてくださいました」となっています。著者は七十人訳ギリシア語聖書を用い、それを先在の御子が世に来られるときに語られた言葉として引用し、それに著者の解釈を加えます。この引用の前半で神が献げ物やいけにえを好まれなかったとあるのは、「第二のもの(後半の御心を行うために来られたキリストによって成されたただ一回の贖い)を立てるために、最初のもの(モーセ律法による供犠)を廃止される」ことの預言であるとされます。
 著者は、当時のユダヤ教の律法学者や知者たちが用いた典型的な聖書解釈の方法を駆使して、大祭司キリストの贖いが旧約聖書の祭儀制度を廃止するという主張を論証しています。この論証の仕方は、パウロが律法とは別に神の義が現されたという主張を論証するために律法(聖書)を用いている(ローマの信徒への手紙4章)のと同じです。
 最後にもう一度あのエレミヤの「新しい契約」の預言が引用されて、キリストが成し遂げられた究極の贖いにより罪の赦しがすでにあるのだから、罪を贖うための他の祭儀はもはや必要でないことが確認されます(15〜18節)。

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2022年6月19日 三位一体後第1主日

説教:「待望」
聖書朗読:ヘブライ人への手紙11章1〜2、8〜19節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「白 眉」

 「白いまゆ」ではない。「はくび」と読む。意味としてはたくさんの中で最も優れているということ。過去に実際に「ピェ・イエズこそ、フォーレのレクイエムにおける白眉である」と書いた事がある。実際に朝比奈隆の指揮で大フィルと共に大阪フェスティバルホールの舞台に立った時、仲間内の雑誌に書き付けた言葉である。とはいえ出典は三国志にあり、蜀の馬良が五人の兄弟の中で最も優秀で,その眉に白毛があったことから来ているので、「白い眉」でも不正解とは言えない。
 さて、今日の11章こそ、まさにヘブライ書の「白眉」であると言えるのである。これまで述べて来た如く、ヘブライ書の眼目は古い契約から新しい契約への転換、宗教から信仰への回帰・前進の実現にこそあった。ここに来て、その眼目が見事に花開き、雄大に、一点の曇りもなく信仰の偉大さが提示される。音楽でいえばまさにベートーベンの九番の第四楽章。「歓喜の歌」の主題提示からプレスティシモ(終結部)に至るまでの部分に相当すると言って良い。
 ではヘブライ書が提示する信仰とは何か。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」であると語る。しかし「望んでいる事柄」は未だ実現していない。だからこそ「望む(希望する)」のである。また今「見えない」なら、なぜそれが「事実」であると言えるのか。またそれをなぜ「確認」出来ると言えるのか。
 信仰とはひたすら自分の信じるものこそ事実であると「思い込む」ことなのか。1節の直訳はこうである。「さて信仰とは、望んでいる事柄を実体化することである」。望んでいることを実体化すること。古来、新しい契約に生きる者たちはこれを為してきたのである。私たちの教会も先達達の信仰によって、この地に「実体化」されたのである。

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2022年6月26日 三位一体後第2主日

説教:「信仰によって」
聖書朗読:ヘブライ人への手紙11章32〜48節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「出会いを生きる・出会いに生きる」

 11章全体にあげられている信仰の実例からして、著者がいう「信仰」とは何かを理解することができます。それは、神の約束によって終わりの時に与えられると望んでいる栄光、まだ見ていない終末的な栄光の事態を確かなリアリティーとして、現在を生きる生き方に他なりません。
 そこで大切なことは39節の「この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。」という言葉です。考えようによっては「じゃ〜駄目じゃん」と思われる方もあるでしょう。だって約束のものを未だ手に入れていないのですから。しかし実は、ここにこそ約束の信仰的側面における意味があるのです。
 この文書の筆者は「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことを悟るのです」(3節)と言います。この根源的な原理をしっかりと把握し、見えないものをリアリティーとする「信仰」を生きることの大切さを、ここで私たちは知ることになります。
 信仰は私たちの所有物ではありません。信仰とは「関係」であり、信仰生活とは「関係を生きること」なのです。ここに「約束されたものを未だ手に入れていない」ことの意味があります。「手に入れていない」からこそ、更なる「変容・脱皮・成長(要するに<メタモルフェーゼ>」があるのです。「信仰」とはこの「メタモルフェーゼ」を神との関係の中で日々体験しつつ生きることに他なりません。
 神も信仰も完全に私の所有物となることはありません。しかし私たちはそこでこそ「所有欲」から解き放たれて、他者との「出会い」をこそ生きる者とされていくのです。このテーマに関しては、キルケゴールの『死に至る病』を推薦図書とさせて頂きます。

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