先週の説教 -バックナンバー-
22年7月のバックナンバーです。
22年7月のバックナンバーです。
説教:「イエスを見つめつつ」
聖書朗読:ヘブライ人への手紙12章1〜4節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「勝利の秘訣」
「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」と語ります。「罪」というと私たちは普通、自らの罪、己自身の肉なる罪を考えることが多いのではないでしょか。しかし此処には「絡みつく」ところの罪とあり、これは明らかに「蔦」の比喩であると思われますので、外側から絡みついてくる罪のことを言っているとも考えられます。
神に背いた人々の思いと行動が引き起こす迫害の罪は、将にその典型であると思われます。それらと闘い、すべての重荷と絡みつく罪を「かなぐり捨てて(引き剥がして捨て去り)」、ひたすらにイエスを見つめつつ、自分に定められた競争を忍耐強く走り抜こうとも言います。
彼らが参加している競争は、競技場のトラックを走るような競技ではありません。どこにも目印のラインなどはなく、しかも同じ処を走ることは二度とないのです。何処が安全で何処が危険か。また走る方向は合っているのか、すべてが初めての場所、初めての道を彼等は走るのです。しかし人生とはまさにそのようなものでありましょう。
そこでこの書の筆者はこの地図のない旅を走り抜く秘訣を授けます。それが2節の冒頭「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」という言葉です。「創始者」とは「原点」ということであり、「わたしたちの信仰と人生の原点であるイエス」ということです。また「完成者」とは、「信仰者としてのわたしたちの人生とこの創造の世界の完成者」という意味です。わたしたちの誕生の前からいまし、さらにはこのわたしの肉体の時を貫き超えて、わたしたちを天の住処にまで導いて下さる、その主イエスを一心に見つめつつ、またその救いの恵みの中に自己をしっかりと定位して、与えられている地上の馳場(はせば)を全力で走り抜こうと勧めるのです。
説教:「愛の鍛錬」
聖書朗読:ヘブライ人への手紙12章4〜7,11〜15節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「主の鍛錬」
この手紙の読者は、かつて「嘲られ、苦しめられて、見世物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの中間となった事もあり、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだ」人々です(10章33〜34節)。しかし彼等はまだ「血を流す」ほどの迫害は受けていません。
この人々が、尚その信仰に踏みとどまり、その試練を耐え抜く力を今こそ身につけなければなりません。そのために必要なことは次の二つのことであるとヘブライ書は語ります。
一つはその苦しみの意味を知るということであり、今一つはそれを乗り超えていく視点を与えられることです。
そして、その両者を併せ持つものとして提示されるのが、「主の鍛錬」という言葉です。一つは「鍛錬」ということであり、これは「当座は喜ばしいものではない」と語られます。これはまったくその通りで、コロナ禍の中で外出することが減り、そこに脊椎の狭窄が加わって、手足の痺れと痛みを常時感じている今、「弱くなった膝をまっすぐにし、自分の足でまっすぐな道を歩け」(12節)とはまさに辛い勧めであると言う他ありません。
けれどもヘブライ書はそれを「主の」鍛錬であると言います。それはこの試練とそれを乗り超えていくための鍛錬の、その背後にあるのは、紛れもなくあなたたちに対する主の愛なのだというのです(6節)。そこでわたしたちは知ります。今のこの痛みや苦しみは、そのすべてが主の痛みと苦しみに与るためのものであったと言うことを。(もちろんわたしの今の痛みや苦しみは、そのほとんどが生活の不摂生という、まさに自業自得の故であって、同情の余地などほとんど無いことをわたし自身、良く判っています。)それでも主は言われるのです。あなたは「聖なる生活」によって、その試練を乗り超えて生きよと。またその事によって、あなたの人生そのものをもって主の恵みを証しして生きよと。
説教:「恵の座、喜びの座」
聖書朗読:ヘブライ人への手紙12章18〜24節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「終わりを目指して」
わたしたちの地上の生涯は、神が備えてくださった栄光の都に入るための旅路です。その旅路を全うするために、著者は「萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」と励まします(12章12〜17節)。その際、著者は一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウの例をあげて、世俗の欲に埋没して、この尊い召しを軽んじ、神の恩恵から落ちることのないように警告します。
この旅路を励ますために、著者はキリストの民が近づいている神の都(シオンの山で象徴される)がいかに栄光に満ちたものであるかを、旧い契約の民イスラエルが近づいたシナイ山と対照して描きます(12章18〜24節)。イスラエルの民が近づいたのは、「燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声」に包まれたシナイ山でした。それに対してわたしたちキリストの民が近づいているのは、「シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血」です。
このように比較対照した上で、地上で御旨を告げたモーセを拒む者が罰を逃れられなかったのであれば、天から遣わされた御子であるイエスや使徒たちが告げる御旨に背くことは、さらに重大な結果をもたらすと警告し、「もはや揺り動かされることのない御国」を受けている特権に感謝して、神に仕える歩みをするように励まします(12章25〜29節)。この「もはや揺り動かされることのない御国」という表現は、ハガイ書2章6節から出た黙示思想的終末観の枠組みで思考していることを示しています。
説教:「命の祝祷」
聖書朗読:ヘブライ人への手紙13章15〜21節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「宥めから喜びの応答へ」
「讃美と善行」これがヘブライ書が主張するキリスト者の基本的な心得である。15節の「いけにえ」というのは、基本的に「神に捧げるもの」の謂であり、かつては「生きた動物の血」をいけにえとして捧げていたが、主キリストの「完全な犠牲」によって、最早かつてのような「いけにえ」を捧げる必要は無くなり、われわれキリスト者は、その全てを成し遂げて下さった父なる神への「讃美」をこそ捧げるのである。よってこれは正確には「いけにえ(即ち宥めの供え物)」というよりは「感謝の応答」とこそ言うべきものである。ここにヘブライ人への手紙が示す「信仰者の生活の根本的転換」があるのである。即ち「贖いの恵みへの感謝の応答」という、全く新しい信仰生活への転換である。さらにそれは、かつての「いけにえ」を、「善い行い」と「施し」へと改変する。
「善い行い」は「ユーポイイアス」であり、これは文字通り「善行」であるが、次の「施し」は「コイノゥニアス」で、これは元来「(交わりの)共同性」もしくは「共有性」を意味する言葉である。
ではその「共同性・共有性」を成り立たしめる基盤・根底は何か。それは「共感性」である。キリスト教をキリスト教たらしめているもの、教会を教会たらしめているものの原点がこの「共感性」なのである。それは即ち主イエス・キリストのわたしたちに対する共感、即ち罪に満ちたわたしたちの現実の悲惨さに対する共感である。その一点に於いて、主は神の子の地位を捨てて世に降り、罪人が受けるべきバプテスマのヨハネの洗礼の列に並び、彼の手の元にその膝を屈められた。その共感の極みが、あの十字架の出来事だったのである。神の共感、即ちその憐れみと慈しみと変わることのない愛惜のの念が、あの場所に打ち立てられた。そこに20,21節の「大祝祷」が実現する。
説教:「信仰による義」
聖書朗読:ガラテヤの信徒への手紙2章15〜21節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「真打ち登場」
これまでヘブライ人への手紙を学んできて、二つのことをその結論として申し上げてきた。一つ目は「宗教から信仰へ」ということであり、今ひとつが「宥めの犠牲から喜びの応答へ」ということであった。この人生そのものが十字架の救いへの感謝と喜びの応答であり、これこそが「讃美のいけにえ」の中身である。さて今日は第三番目のこと、われわれプロテスタント信仰の中枢・中核である「信仰義認」についてである。
まず、ガラテヤの信徒への手紙2章16節に関する二つの訳を比べてみよう。
(新共同訳)「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。」
(聖書協会共同訳)「しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。」
「ピステオゥス:真実=信仰の(名詞・属格)」は属格なので、「イエス・キリストの真実」と読む以外ない。最新の協会共同訳はそれを取ったのである。わたしの救い(義認)は「このわたしのイエス・キリストへの信仰」に拠るのではなく「イエス・キリストのわたしたちへの真実」によるのである。
このキリストの真実が、あのゴルゴダの丘の上に打ち立てられたのである。その真実だけは何があろうと揺らぐことはなく、また如何なる状況にあっても取り消されることはない。これが信仰の確かさであり、プロテスタント信仰の三番目の核心である。