先週の説教 -バックナンバー-
22年9月のバックナンバーです。
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説教:「福音のはじめ」
聖書朗読:マルコによる福音書1章1〜11節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「始め」か「始まり」か
「イエスキリストの福音の始め」とマルコはその福音書を書き始める。新共同訳には、これに「神の子」の一言が加わる。ところがこの一言はマルコ福音書の最も古い写本には存在しないのである。ここで二つの疑問がたつ。一つは表題に掲げた福音の「始め」なのか「始まり」なのか。今ひとつは、なぜマルコ福音書の冒頭に「神の子」の一言を付け加えなければならなかったのかという問題である。
まず「始め」といえば、その直近を指すことになる。すなわちその直後の旧約の引用がそれである。まさにそこからイエス・キリストの福音が始まることになる。しかしこれを「始まり」と受け止めれば、その範囲は大きく広がっていくことになる。そこでの問いは一つ、一体この福音書のどこから「イエス・キリストの福音」は始まるのであろうか。
今ひとつの問いは、この福音書の冒頭になぜ「神の子」の一言が付加されねばならなかったのかということである。「神の子」とは、まさにイエス・キリストの本質を言い抜いた言葉であり、かつそれは真実である。しかしこの福音書の筆者自身は、冒頭にその言葉を記さなかった。ではまったくそれを書かなかったというとそうでは無い。
この福音書の最後に、十字架に架けられて絶命された主イエスの姿を見て、異邦人であるローマの百人隊長が「このひとはまことに神の子であった」と語るのである。これに近いものとしては福音書のはじめの方で悪霊が「神の聖者だ」と言う。つまりイエスの本質を見抜いている者は、この段階では「悪霊」と「異邦人」であって、それ以外の者ではないということになる。最初から最後まで、ユダヤ人はもとより、イエスの弟子達にもその本質は理解できなかった。では、一体どこから主の福音は始まるのであろうか。それがまさに今日の課題である。
説教:「招きを生きる」
聖書朗読:マルコによる福音書1章12〜20節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「何が彼等を従わせたのか」
今日の箇所はシモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの四人の漁師が主イエスの呼びかけに直ちに従った有様が描かれている。彼等はなぜこんなにも簡単にイエスに従ったのだろうか。シモンとアンデレの場合は「網を捨てて」イエスに従っている。漁師にとって「網」とはほとんど唯一の生活の糧を得るための道具であり、財産であった。更にヤコブとヨハネに至っては父を船に残してイエスに従ったとある。親子関係はもとより、老いた父を扶養し世話する義務までも放棄してイエスに従ったのである。
14節には「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き」とある。ヨハネの捕縛を見てイエスは怖じ気づかれるのではない。此処は重要な箇所で、要するにヨハネの時代が終わり、イエスの時代が始まったことを示す言葉なのである。ではイエスが開いた新しい時代のメッセージとは何か。それをマルコは三つの言葉で示します。@時が満ち、A神の国が近づいた、B悔い改めて福音を信ぜよ、である。
この際の「時」はカイロスであり、「神が行動し、この世界に介入する瞬間」を指す言葉です。つまり、イエスと共に、救いのカイロスが到来したのです。イエスは続けて「神の国は近づいた」と宣言します。「国」と訳された「バシレイア」は「王的支配」を意味する言葉で、権威的、強圧的支配をイメージさせますが、ここでは「神のそれ」であることが大切です。それは「義と平和と喜びを与える神の支配」(ローマの信徒手紙14章17節)であり、この神の国の到来という新しい時代に身を合わせて生きるようにという勧めが「悔い改めて福音を信じなさい」という求めなのです。神の国の到来は教説ではなく出来事です。その最初の出来事が四人の若者の召命であり、これはすべてを後ろに残して従わせるほどの「神の支配=神の国」の強さを示す出来事でした。
説教:「癒す権威」
聖書朗読:マルコによる福音書1章21〜45節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「乗り超える命」
40節に「重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならばわたしを清くすることがおできになります』と言った」とあります。この「重い皮膚病」の原語はいわゆる「レプラ」であって、伝統的に「らい病」と表記されてきた。
イスラエルの律法では、この病に罹った者は常に町の外にいて、人々に近づいてはならなかった。その意味でこの人の行動は既に律法違反であった。そしてこの人が言う。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と。
律法の規定を乗り超えてイエスに近づいた人が、自分の存在のすべてをイエスの側に投げかける。そこにあるのはイエスに対する信頼であろう。それにたいしてイエスは答える。@「深く憐れんで」、A「手を差しのべてその人に触れ」、B「よろしい、清くなれ」と言われた。
この「深く憐れんで」はいわゆる「スプランクニゾマイ」で、善きサマリア人の譬えに出るものと同じである。直訳すれば「肝が震えて」となる。イエスの内臓がこの人の苦しみに同調したということである。
そしてイエスはこの人にお触れになる。これも律法では禁止されていることであった。この病に罹っている人は常に「自分はレプラに罹っている。誰も近づくな」と言いつつ、集団の外で生きなければならなかったのである。
そして最後にイエスは言われる。「よろしい、清くなれ」。「よろしい」は「わたしは望む」という言葉であって、このひとの「御心ならば=あなたが望むなら」に対応している。「あなたが望んで下さるなら」とイエスの前にひざまづいたこの人に対して「わたしは望む」と力強くお答えになったイエスの愛が感じられます。
聖書の神は、このようにわたしたち達の苦しみに近づき、触れて下さる神なのです。
説教:「論争の中で」
聖書朗読:マルコによる福音書2章1〜22節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「今、何時(なんどき)ですか」
今、朝の聖研と夕べの祈祷会で学んでいる「コヘレトの言葉」には「すべてのことには時がある」という有名な箇所がある。しかもそれは神によって定められた時なので、これを乗り超えるのは至難の業であるということになる。
その中の一つが、今日のテキストに出る「断食の時」である。イスラエルの宗教に於いて断食は祈りと癒やしと共に大事な善行とされていた。年一度の「贖罪の日」には必ず行われ、それ以外にも干ばつや疫病の際に一定期間に亘る断食が実行された。
これはすべての人が行うべき断食であるが、これ以外にも敬虔な人が進んで行う私的な断食もあった。例えば洗礼者ヨハネの食事は「イナゴと野密」であり(マルコ1:6)、人々は彼を「飲みも食べもしない」(マタイ11:18)と見ているから、断食を日常的におこなっていたと見ることも出来る。従って、彼の弟子達も断食を実行していたはずであり、自分たちの敬虔さを売り物にしていたファリサイ派の人々も、律法の規定する断食の他、私的な断食を熱心に行っていたものと思われる(ルカ18:12)。
一方でイエスは「大食漢で大酒飲みだ」(マタイ11:19)と噂されていたことを考えると、イエスと彼の弟子達も断食にはさほど熱心ではなかったのかもしれない。そのような状況下でヨハネの弟子達とファリサイ派の人たちはとその取り巻きがイエスに議論をふっかけることになる。
ではイエスはこれにどうお答えになったか。19節「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか」がその答えである。マルコ福音書の隠されたテーマの一つが「時」である。つまり今は祝福の時であり、祝祭の時だというのである。
冒頭に挙げたコヘレトの言葉では「しかし神は永遠を思う思いを与えられた」と言う。その神の永遠が、主イエスの到来であり、神の国の実現なのである。