日本基督教団 洛北教会

2022年 教会標語「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(1テサロニケ5:16-18)

先週の説教 -バックナンバー-

22年10月のバックナンバーです。

2022年10月2日 聖霊降臨後第16主日

説教:「本末転倒」
聖書朗読:マルコによる福音書2章23〜28節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「人間=命の意味を見出す」

 人間が安息日のために造られたのではない。人間のために安息日の制度が定められたのである。そうであるならば、終わりの日に人間が本来の姿に回復される時、人間はもはや安息日律法に縛られた奴隷ではなく、安息日の定めを自分の内に成就している者となり、その主人となるであろう。
 イエスはこのように終わりの日に出現する新しい人間を先取りし代表する者として、ご自身を「人の子」と呼ばれる。「人の子」イエスは聖霊による神との交わりの中ですでに「安息日の主」になっておられる。
 しかしこれはイエスだけのことではない。やがてイエス・キリストにあって贖われ、同じ聖霊の現実に生きるようになる新しい人間すべてに成就することである。今や人間はキリストにあって、創造と贖いと完成の喜びの祝祭である安息日を毎日祝っている。それをどのように表現するかは人間の自由である。もはやユダヤ教の規定には縛られていない。人間は安息日の主人である。
 キリスト教会はユダヤ教の安息日(土曜日)を廃して、イエスが復活された週の第一日(日曜日)を「聖日」として祝うようになった。ユダヤ教では安息日の定めを守ることが神の民のしるしとされていたのであるから、この事実は初代の教団がユダヤ教とはっきりと訣別したことを示している。イエスが安息日の律法に対して語られた言葉が事実となって実現したのである。
 教会はこのことの意義をしっかりと保持していなければならない。もし、教会が「これをしてはならない。このような教会活動をしなければならない」というような形で「聖日を守る」ことを要求するならば、それは人間をふたたび律法の奴隷にすることになるであろう。

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2022年10月9日 聖霊降臨後第17主日

説教:「命を救う神」
聖書朗読:マルコによる福音書3章1〜6節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「怒りと悲しみ」

 主イエスの心の中にあったのは怒りと悲しみであったと今日の聖書は言う(5節)。イエスが怒ったのは「人々」が「安息日=父なる神の御心」の本質をほぼ完全に見失っていたからであり、悲しんだのは、彼等の心が頑なだったからでる。  この5節を直訳すると「怒りを持って彼等を見回し、彼等の心の頑なさに深く悲しみつつその人に言う。手を伸ばしなさい。彼は手を伸ばした。そして彼の手は戻った」となります。
「怒り」と訳した名詞「オルゲー」は福音書ではこの箇所以外に4回用いられています。具体的にはマタイによる福音書3章7節、ルカによる福音書3章7節、21章23節、ヨハネによる福音書3章26節がそれです。そしてこの言葉は、いずれも終末時の神の怒りを表す言葉です。
 次に「頑なさ」と訳された名詞「ポーローシス」は新約文書では他にパウロ文書で2回、具体的にはローマの信徒への手紙11章25節、エフェソの信徒手紙4章18節である。これらはいずれも「無知から来る頑なさ」を指しています。
 しかしここでわたしたちが見落としてはならないことは、このイエスの怒りと悲しみが、これを裏返せば、即ち主のイエスの愛そのものだということであります。人の親が子どもを育てるとき、多く怒り、多く悲しみます。その根本動機は「憎しみ」ではなく「愛」なのです。
 イエスに心を閉ざし、無知に陥って頑なになるとき、わたしたちは自ら命への道を閉ざす事になります。神の救いを自ら拒んでいるからです。この頑なさを崩すもの者は何か。
それは神の言葉に聞く姿勢です。これを養うものが、ひとつが礼拝であり、今ひとつが教会学校の活動なのです。この両者を大切にしながら、これからも前進する教会でありたいと思います。

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2022年10月16日 聖霊降臨後第18主日

説教:「イエスを見抜いた者」
聖書朗読:マルコによる福音書3章7〜12節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「最も恐ろしい箇所・・・」

 今日の箇所は読んでいて「鳥肌がたつ」箇所である。まずマルコ福音書には「マルコの地理問題」というのがある。T.K.氏のような”反聖書的聖書学者”などの手にかかれば、マルコの地理的知識の不正確さと、イスラエルの地理への無知を表していると言うことになる。確かにこの箇所に地理的記述は錯綜しており、そこに何の無理もなく整合性を見いだすことは困難である。
 しかし、わたしに言わせれば、そんなことはどうでも良い。ユダヤ、エルサレムにとどまらず、異邦人の地である南のイドマヤ、ヨルダン川の東側、北のティルスやシドンからも「おびただしい群衆」がイエスのそばにやって来たと書くことによって、東西南北から「おびただしい群衆」がイエスのもとに押し寄せたのであるとマルコは言いたいのである。
 しかし「鳥肌が立つ」のはそこではない。「押し寄せる」と訳されている言葉は「落ちる」と言う意味の動詞であり、よってこの箇所を直訳すると「病気を持っている人は皆、彼の上に落ち、汚れた霊達は、彼のそばに落ちた」ということになるのである。両者の違いは何か。イエスの「上に落ちるか」、イエスの「そばに落ちるか」である。上に落ちればイエスが「圧死」することになる。だからイエスは「小舟を用意しろ」と命じたのである。
 しかし汚れた霊達はその正反対の対応を示す。彼等がイエスの「そば」に落ちたのは、一つにはイエスを押しつぶさないためであり、更にはイエスに「ひれ伏す」為であった。イエス自身ではなく、イエスの「業」のみに目を注いで、その故にイエスの上に落ちていく群衆とは異なり、イエスそのものに目を注いでいるからこそ、汚れた霊達はイエスのそばに落ちて彼を礼拝し、更に「あなたは神の子」と言うのである。その業を見るか、イエスそのものを見つめるか、後者の立場においてイエスが誰かを見ぬき、汚れた霊さえ「かく信じてわななけり」となったのである。この時「信仰」はどちらの側にあるか。

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2022年10月23日 聖霊降臨後第19主日

説教:「イエスの任命」
聖書朗読:マルコによる福音書3章13〜19節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「新しい共同体」

 ここで行われたことは、十二人という数の弟子が何か既存の役職に任命されたということではなく、新しい共同体が創造されたのである。この新しい共同体は「十二人」と呼び慣わされるようになる。
 すぐ続いて新しく創設された共同体の使命が語られる。まず第一は、彼らをいつも一緒におらせて、イエスのすべての業と言葉との目撃証人とし、その伝達者とするためである。
 そしてイエスは彼らを遣わすにあたって、空手で送り出されない。「悪霊を追い出す権威」を与えて、彼らが宣べ伝える「神の支配」が現実のものであることを証明される。当時の人々は病気も悪霊の働きの結果であると考えていたのであるから、「悪霊を追い出す」ことは病気を癒すことも含んでいる。悪霊が直接人の霊を支配したり(悪霊に憑かれた状態)、身体の不調(病気)を足場にして人の霊を圧迫したりしている。そのような悪霊の支配を神の力によって覆し、人の霊を神との喜ばしい交わりに入れることが「神の支配」の到来である(マタイによる福音書12章28節)。
 「神の国を宣べ伝える」ことと「悪霊を追い出す」ことの二つは、イエスの働きを要約して述べる時には、いつも一対で用いられる表現である。このことから、イエスが「十二人を創設された」のは、彼らをいつも一緒におらせてご自身の業の目撃証人とするだけでなく、ご自身がされているのと同じ業を彼らにもさせ、彼らをご自分の働きの継承者とするためであったことがわかる。
 さて最後に挙げられた「十二人」の名前は、ギリシア名やギリシア読みにされた名が多くあり、彼らの出身や経歴を見ると、漁師や取税人や熱心党員というようにさまざまの職業や違った立場の人たちが混じっている。イエスは「無学のただ人」、「地の民」を選んで新しいイスラエル、まことの神の民を創設されるのである。

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2022年10月30日 聖霊降臨後第20主日

説教:「血肉を超える者」
聖書朗読:マルコによる福音書3章20〜35節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「内と外」

 21節で「気が変になっている」と訳された動詞はもともとは「外に立つ」を意味し、そこから「常軌を逸している」と言う意味で用いられます。更にこの節の冒頭は「身内の人たち」が登場します。つまり、この箇所の真のテーマは「内と外」、何が内であり何が外なのか、それが問われていることになります。
 肉の基準で見れば、確かに家族・親族は「身内」であり、赤の他人は「外の人」です。
しかしイエスは此処で、その水平の視点を垂直の視線へと転換するのです。それが35節の「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」というお言葉の意味なのです。ここでなぜ「父」出てこないのか、それは真の父は父なる神お一人だからです。
 今日の箇所の構造を見ると次のようになっていることに気づかされます。
 十二使徒の選び (13〜19節)
 身内との軋轢  (20〜21節)
 ベルゼブル論争 (22〜30節)
 身内との軋轢  (31〜35節)
種蒔きの譬え  (4:1〜9節)
 十二使徒は宣教の業のために立てられました。それは世界に向けて種を蒔くことです。その働きが実を結ぶ為に、ベルゼブルの世界を超え、更に肉の軋轢をも超えて、種蒔きの譬えに出てくる「良い土地」となるためには、「神との関わりに生きる家族、親族」と成らなければならないというメッセージが、ここで語られていることの本質です。
 イエスのもとに押し寄せた「群衆」が、自分の身内中心や自分中心の生き方の「外に立つ」とき、イエスの真の「身内の人」と成ります。イエスは古い「身内」から脱却し、新しい「身内」へと転換することを求めているのです。

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