先週の説教 -バックナンバー-
23年1月のバックナンバーです。
23年1月のバックナンバーです。
説教:「神が愛」
聖書朗読:ヨハネによる福音書3章17〜21節
説教者 : 森里信生牧師
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説教:「嵐の中で」
聖書朗読:マルコによる福音書4章35〜41節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「神の信頼」
40年近くに亘って聖書を読み、これを人に説く生活を送ってきた。その生活も、社会的な務めとしては間もなく終わろうとしている。そのようにして歩んできて、今、辿り着いた境地というか、理解、悟りとも言うべきものがある。それは概ね次のような事である。即ち、人は「信仰」というと直ちに我々「人間」が「神を信じること」と考え、理解するのではないか。しかし聖書の信仰を徹底的に突き詰めると、実はそうで無いことが判ってくる。些細は省略し、結論だけを申し上げれば、聖書信仰の基本形「構造は先ず神が人を信じ、人がその信頼に応える」というものである。
聖書信仰に於いて、信じるのは先ず「神」であって「人」ではない。信仰をギリシャ語では「ピスティス」と言うが、その原義は「真実」ということである。だから「信仰」とは、「神の真実が人と出会うこと」であると言って良い。その最も真実かつ根源的な出来事こそが、あのクリスマスの日の出会いであった。少女マリアは大天使ガブリエルと出会い、ヨセフは夫としてマリアと出会い、マリアもまた妻としてヨセフに出会った。羊飼いは天使と出会い、最後に布にくるまった幼子と出会ったのである。
この出会いの全てが「真実の出会い」であり、また「真実との出会い」であったと聖書は我々に語る。我々において「信仰」とはこの「真実」のことであり、その真実は「神に始まり神にこそ由来する」のであると。この神の真実は人間の不実を覆い、乗り超え、我々を再び神の真実に生かすものとなる。「復活」と「出会い」がそれである
ガリラヤ湖の嵐の中で船の艫に静かに眠る主イエスの姿がある。これは神の真実に対する主イエスの信頼の姿なのである。船は教会であり、主イエスがその心臓部(艫=櫓と舵にあるところ)に安んじておられる。そこに私たち一人一人が、自分自身の存在の全てを置くべきところがある。主の真実と安らぎを聖書は「信仰」と呼ぶのである。
説教:「家に帰りなさい」
聖書朗読:マルコによる福音書5章1〜6、18〜20節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想
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説教:「少女よ起きなさい」
聖書朗読:マルコによる福音書5章35〜43節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想
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