日本基督教団 洛北教会

2023年教会標語「ただひとり 驚くべき大きな御業を行う方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」(詩編 136 編 4 節)

先週の説教 -バックナンバー-

23年2月のバックナンバーです。

2023年2月5日 受難節前第3主日

説教:「空っぽ」
聖書朗読:マルコによる福音書6章14〜29節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「空っぽ」

 マルコは、ヨハネを獄につないでおきながら、悩みつつもなお進んで彼の言葉に耳を傾け、彼を王妃の殺意から守っているヘロデの矛盾した姿を伝えている。
 狡猾な権力者ヘロデは、良心の悩みからヨハネを殺すことができないでいた。そもそもヘロデがヨハネを逮捕投獄したのは、燃え盛っている反ローマ的なメシア運動によって不穏な状況にある自分の領地ガリラヤで、民衆に対するヨハネの巨大な影響力を恐れたからであろう。ヨハネをメシアであると考える人々もかなりいたようであるから、ヨハネを処刑すれば騒乱は避けられないと心配したのは当然である。ヘロディアの娘の願いに応えてヨハネを処刑する決断をするときに悩んだのは、良心の悩みではなく、騒乱の心配からの悩みであったのであろう。いずれにせよ宴会の一場の余興の褒美に、神の人の血塗られた首が提供されたのである。想像するだけでも吐き気をもよおす光景である。これは、権力の維持のためには人間の生命や尊厳を塵のように軽んじる権力者の冷酷、自分の虚栄を傷つける者に対する女の憎悪や情念、道理を焼き尽くす恋情の炎、そして何よりも自分の思いを貫くために神を憎み退ける人間の高慢、こうした人間性に巣くうあらゆる罪が凝集して現われた光景である。
 まことに、イエスがヨハネについて言われたように、「エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は彼を好きなようにあしらったのである」(マルコ9章13節)。この世は神を恐れることなく、自分の本性にしたがって、自分の思いのままに、神から遣わされた先駆者を扱ったのである。そうであれば、この世は彼の後に現われる「人の子」にも同じようにするであろう。
 そこに現れ出るのは世を代表する王の存在論的空虚さに他ならない。そして彼はまさに我々の代表なのである。

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2023年2月12日 受難節前第2主日

説教:「休息を超えるもの」
聖書朗読:マルコによる福音書6章30〜34節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「イエス様・・・私たちの休憩の話はどこへ.....。」

 6章7〜13節に述べられた「弟子の派遣」を受けて、彼等の帰還を語るのが今日の箇所です。「杖一本」しか持たずに出かけた宣教の旅でしたから、どんなに多く、緊張し、疲れ果てた事でしょうか。その弟子達に一時の休息と栄養の補給をイエスが命じられたことは、実に正当なことでありました。
 しかし群衆は弟子達の先回りをします。マルコ福音書は「見て、気づき、一斉に駆けつけ、先に着いた」と四つの動詞をたたみかけるように用いて、彼等の熱意と興奮を描写します。
 一方、船から出たイエスはその群衆の姿を「見て」、「深く憐れみ」、「いろいろと教え始められた」とあります。
 先の「休憩・休息」は何処へ行ったのでしょうか。それは消えたのです。イエスが働き始められたのに、弟子達が休んでいられる筈がありません。彼等も主イエスと共に働きを再開するのです。
 ここで「休む」と訳された「アナパウオー」という言葉は、ただ肉体の休息を指すだけでなく、喜びや慰めを受けてその魂が元気づけられることを意味します。
 イエスが休む場所として挙げたのは「人里離れたところ」ですが、この「エレーモス」の原意は「荒野」です。そこは他の命を寄せ付けない場所であるからこそ、神の命と出会う場所となるのです。使徒達が行く場所は神との交わりの中で「元気づけられる」ための場所なのである。
 「深く憐れむ」と訳された言葉は、これまで何度も述べてきたように「スプランクニゾマイ」という言葉であり、その原意は「肝(内臓)が震える」もしくは「断腸の思い」と訳すのが最も近い言葉である。
 いろいろな教えと五千人の養いがその到達点である。教えもパンも主イエスの命そのものの分かち与えであり、その働きこそは「礼拝」そのものなのである。その働きの中にイエスは休息する。弟子達も同じなのだ。この働きこそが真の休息=回復なのだと主は言われる。

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2023年2月19日 受難節前第1主日

説教:「真ん中に立つ命」
聖書朗読:マルコによる福音書6章53〜56節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「触れたのは誰か」

 ゲネサレトは湖に隣接して広がるティベリアス北方、カファルナウム西方の肥沃な地域であって、ガリラヤ湖はこの地域の名によって「ゲネサレト湖」とも呼ばれている。イエスの一行が湖を渡ってこの地方に入った時、人々は癒しを求めてイエスのもとに集まってきた。これまでに見てきたように、イエスはすでにご自身の働きの時期が最終的な段階に入っていることを深く自覚しておられる。けれども、ガリラヤの民衆はこれまでと同じように、イエスが自分たちの所におられるかぎり、病気や様々な人生苦からの救いを求めて群がり集まるのである。
 この記事はマルコがイエスの働きを要約して書いた記事であろうが、ここには神の力を宿す方としてのイエスの評判は非常に高まっていて、もはや教えにじっくりと耳を傾けるようなゆとりはなく、また一人ひとり手を置いて祈っていただくのももどかしく、直接イエスに触ることによって癒されたいという民衆の熱気が感じられる。その熱気の中で、イエスに対する信仰が、「上着のふさ」に触りさえすれば癒されるという、物そのものが神的な力を持つかのような様相を示している(出血が続く婦人が触ったのはイエスの上着のふさであった)。
 敬虔なイスラエル人にとって「上着のふさ」はただの飾りではなく、神の律法を思い起させるしるしとして上着につけるように命じられているものである(民数記15章37〜41節)。しかし、どれほど神聖な意味を持つものであっても、物自体に神の力が宿るわけではない。その物が接触点となって、内面に閉じこめられていた神の力に対する信仰が解き放たれて行動に現れる時、驚くべき神の業が行なわれるのである。イエスに対する信仰がこのような信仰の行為を生み出すのである。
 彼らは上着のふさに触ったのではなく、イエスに触ったのであり、イエスの中に働く神の力に触れたのである。「彼に触った者はみな癒された」。水の上を歩くイエスとの出会いを語る記事において、地上のナザレ人イエスが復活者キリストであることが一層深く印象づけられる。

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2022年2月26日 受難節第1主日

説教:「何を捨て何を守るか」
聖書朗読:マルコによる福音書7章1〜13節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「あなたの傍に居たかった」

 ユダヤ人達は、どうすれば神を離れず、その傍に居続けることが出来るか、それだけをひたすら考えていたと言って良いであろう。
 律法学者が伝えてきた清めの細則(ハラカ)も神の定めとして守らなければならないというファリサイ派や律法学者の立場からすれば、弟子たちに洗わない手で食事をするように教えたり、そうするのを黙認したりすることは、律法違反を唆すことであり、異端の教師として告発するのに十分である。彼らがイエスに、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝え(ハラカ)に従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのか」と言ったのは、単なる質問ではない。これは律法違反を責める激しい詰問であり、返答次第では異端の教師として告発するぞという脅しである。
 それに対するイエスの答えはまことに明白で大胆である。「あなたがたは神の戒めを無視して、人間の言い伝えをかたく守っているのだ」。イエスはハラカを人間の言い伝えとして拒否される。預言者イザヤの言葉(イザヤ書29章13節)によって、彼らが人間の言い伝えを立てるために、神の戒めを捨てている倒錯を暴露される(6〜8節)。このハラカの全面的拒否はユダヤ教の歴史に例をみない大胆な宣言である。
 神との距離は人の行為の正しさによるのではなく、神との距離の遠近による。放蕩息子の物語では、兄の方は常に父の傍におり、その言いつけを全て守ってきたが、心は父から遠く離れていた。翻って弟は父から遠く離れたところにいたが、心からの悔い改めによって、父と一つとなった。
 わたしたちが日々の悔い改めによって父と一つであり続けること。主はそれをこそ求めておられるのである。

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