日本基督教団 洛北教会

2023年教会標語「ただひとり 驚くべき大きな御業を行う方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」(詩編 136 編 4 節)

先週の説教 -バックナンバー-

23年3月のバックナンバーです。

2023年3月5日 受難節第2主日

説教:「目をさましおれ」
聖書朗読:マルコによる福音書13章32〜37節
説教者 : 岡本知之牧師

説教黙想 「子も御使いも」

 前の段落で、いちじくの木の譬を用いて、目に見えるところは苦難に満ちた暗闇だけであっても、その背後に確実に人の子の栄光が顕現するときが間近に迫っていることが教えられたが、すぐに続いて、その時を確定することができると称する人々に対して警告が発せられる。「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使いたちも、子も知らない。ただ父だけが知っておられる。」(32節)
 いつその事が起こるかは、地上の人間が知ることを許される性質のことではない、というのである。先に見たように、当時の教団内部には、キリスト来臨の日を歴史上の特定の出来事に結びつけて語る人々がいたので、マルコは「まだ終りではない」と警告しなければならなかった(7節)。ここでは、そのように来臨の時を知ることができるという態度そのものが、人間の思い上がりであるとして退けられる。
 「人の子の顕現」あるいは「キリストの来臨(パルーシア)」という事態は、完全に歴史を超えた次元のことであるので、歴史の中に位置づけることはできないのである。すなわち、時間と空間の次元にしかいることができない人間にとって、その出来事の時期と様態は知ることができない性格のものである(使徒言行録1章7節参照)。イエスもその時がいつであるかは示しておられない。さらに、「天にいる御使いたちも知らない」と言われている。これは、当時のユダヤ教黙示文書が将来に起こる出来事を描くのに、それを天使から示された啓示として語っていることを背景として見ると、その実践的な意義が明らかになる。将来に関する黙示録的な描写は、たいてい霊感を受けて特別の天からの啓示に与った結果だと主張している。その主張がこの句によって反駁されているのである。その日、その時については「天にいる御使いたちも知らない」のであるから、終末のドラマについてのいかなる黙示録的時間表も真正の啓示ではないとされるのである。

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2023年3月12日 受難節第3主日

説教:「栄光は神に」
聖書朗読:
説教者 : 森里信生牧師

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2023年3月19日 受難節第4主日

説教:「聖霊によって」
聖書朗読:
説教者 : 森里信生牧師

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2022年3月26日 受難節第5主日

説教:「新しい朝に」
聖書朗読:マルコによる福音書16章1〜8節
説教者 : 岡本知之牧師

「福音の射程」

 聖書の言葉はどの程度の射程距離を持つものなのだろうか。たとえばマルコ福音書の冒頭、「イエス・キリストの福音のはじめ」の「はじめ(アルケー)とはどう言うことか。ルーツ(根源)なのか未来のスタート(展望)なのか。また1章1節から始まる「神の子の福音」の終わりは何処か。16章8節がその終わりなのであろうか。
 私の見るところでは、マルコの場合、その「福音書の終わり」が「神の子の福音の始まり」なのである。いかなる意味においてであるか。マルコ福音書に現れる弟子たちの人生は失敗と敗北の連続であった。しかしその最後に天使が告げるのである。「あのお方は、かねて告げられた通り、あなた方より先に、ガリラヤに行き待っておられる」と。彼らが急ぎ立ち返ったガリラヤという、彼らの人生の原点における復活のキリストとの出会い、そこから真の福音が始まるのだと。
 その意味で福音の射程は私たち一人一人の人生をも越えている。まさに人間のピリオドは神のカンマなのである。神はその様にして、私たちの終わり(ピリオド)を超えて、神の子の永遠の福音へと私たちを導いて行かれる。

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